高野慎三『神保町「ガロ編集室」界隈』(ちくま書房)を読む。高野は大学卒業後日本読書新聞に入社し、その後『ガロ』を発行していた青林堂に転職する。青林堂は社長の長井勝一とパートナーで経理担当の香田明子の二人だけだった。結局1966年9月から5年少し勤めることになる。高野は退職後北冬書房を始めた。
『ガロ』は白土三平が「カムイ伝」を連載する発表媒体として構想したのではないかと高野は書いている。『ガロ』創刊は1964年7月頃だった。ほかに水木しげるがマンガを連載していた。
1970年前後の『ガロ』を評して「黄金時代」と評されたことがあったが、最盛期でも『ガロ』の部数は48,000部程度だった。白土、水木のほかに、つげ義春、滝田ゆう、池上遼一、佐々木マキ、林靜一らが中心だった。
また現代美術の作家たちも青林堂に出入りし、高野も彼らと交流を持った。千円札裁判事件の赤瀬川源平、0次元の加藤好弘、また映画監督の加藤泰、鈴木清順など。
つげ義春の代表作「ねじ式」は、つげ義春特集に掲載したが、長井社長ははじめこれを理解できず、掲載に難色を示した。それを高野が強引に掲載した。特集号は売れなくて半分が返本になったが、徐々に「ねじ式」の評価が高まって最終的に完売した。
高野が退職したあと、何年かして青林堂は人手に渡る。そのあたりのことを高野ははっきりとは書いてくれない。