亀山郁夫『あまりにロシア的な』を読む

 亀山郁夫『あまりにロシア的な』(文春文庫)を読む。亀山は光文社古典新訳文庫で『カラマーゾフの兄弟』を翻訳して大当たりを取った人。私もこの翻訳でカラマーゾフを初めて読んだのだった。読みやすくて、どうして今まで読まなかったのかと反省した。
 本書はその亀山が1994年から丸1年ロシアに留学していたときの体験を綴っている。亀山のテーマはマヤコフスキーの研究だった。ロシアの研究者たちとの交流が語られ、好きなクラシック音楽のコンサートに出かけ、オペラを見て、サンクト・ペテルブルグやカスピ海ポーランドワルシャワチェコプラハなどに旅行している。
 著者の専門はロシア革命後の前衛芸術だったと思う。だから本書のエピソードはとても興味深いものだ。ところが内容がくっきりしたイメージを結ばない。エピソードがばらばらに語られているせいだ。「あとがき」で著者が書いている。

 本書での試みについて、あえて一言つけ加えておこう。
 ペレストロイカから15年、この間の私のロシア見聞をその総体において表すのに、コラージュという方法に頼るしかすべはなかった。「構成を根底的に個人的なものにすること」というミラン・クンデラの言葉を呪文のように唱えながら、私はこの記録が、原題のロシア文化をめぐる一つのガイドブックのようなものになることを願った。そしてそれを束ねる糸を、越境という行為のもつある種の実存性に見いだしたいと思った。

 亀山が意図的に採用したこのコラージュの方法は成功していない。ばらばらな情報が、まさにコラージュされていて、全体が見通せないのだ。亀山は当事者だからよく分かっているのだろうが、個々ばらばらのものを非体系的に提示して、それを同時に大局的に示すことに成功していない。
 さらに文章が巧いとは言いがたい。翻訳ではおそらく原文の骨子があるので破綻することが少ないのだろうが、このようなエッセイでは、初めから作らなくてはならないため、名翻訳家といえども分かりにくい文章を綴ってしまうことになったのではないか。
 自分が語ろうとする事柄について読者がどこまで分かっているのかというコンテキストの把握に問題があるように思われた。
 本題とは関係ないが、私の好きなSF作家スタニスワフ・レムが登場している。

「で、ラーゲリを知るのに、一番いいのはシャラーモフの『コルィマ物語』(邦訳・朝日新聞社)だね。あれにくらべたら、ソルジェニーツィンなんて社会主義リアリズム以外の何ものでもない。『イワン・デニーソヴィチの一日』を読んだ時、ぼくは全然気にいらなかったな。嬉しかったのは、シャラーモフが同じラーゲリ帰りのソルジェニーツィンの小説を読んで、彼にこういっているんだ。『要するに君はニス屋だね』と」
スタニスワフ・レムっていますよね。ポーランドの作家で。彼がソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』のことを、『政治的ポルノ』といっているんです。べつに悪意ある批判ではないのだけど」

 レムはSF作家だけれど、底の知れない深い思想を持っているのだ。


あまりにロシア的な。 (文春文庫)

あまりにロシア的な。 (文春文庫)