画家の言葉ーー中西夏之の絵画論から

 中西夏之の絵画論は本当に難しい。以下はその絵画論の一部だ。

 南方の海上生活者が、海の水平面に模して、彼らの簡素な住居の床を海上面に水平に張っているように、この地上は固い岩盤の上にあるのではなく、幾層もの膜の重なりであり、それを大地と安定的に呼ぶよりも、地面とか地表と呼ぶことが好ましい。
 それはまた水平膜面と呼べる程に揺れやすく破れやすい。私達はそこに位置している。そして位置を変える。小鋼球がそうであったように、位置のみあって、躯の重さはそれに支えられていると想うべきではない。水に浮かぶ船が、着水する飛行艇が、大地の続きである海底に支えられているのではない。と同じように、ただ水平膜面に位置している。
 しかし、ここでのそのような躯は躯’とすべきだろう。躯と躯’はシュミラクル関係にある。私達が通常使っている躯とは一体何か、と問われた時に、躯以外のさまざまなものの寄せ集めで説明しているが、そうではなく、仮想するもう一つの同じ躯、相似の躯ーーこれを躯’としてーーこの躯’を通常の躯と並べて置き、ソレはコレだと言うことである。そのような躯’の仮定を創造することである。
 実は、この躯’が舞い踊るのであり、絵を描くという作業もこの躯’なのだ。あらゆる儀式行為はこの躯’で行なうのである。

1. ボーッとしなさい。なにも眼は二つあるとはかぎらない。
2. 空を見上げる。顔を伏せ地を見る。それらを同時になせ。
3. これからやって来る何ものか、或は去って消えゆく何ものか、すでに無いもの、いまだ無いもの。すでに無いもの、いまだ無いもの。/絵を響かせたくなる衝動はどちらに強く生じるだろう。
4. 夕日、落日、西日が眼を水平に射る高所に昇りなさい。
5. まず、顔を晒しなさい。顔は空間を移動する一つの襞である。/顔は空間が極度に凝縮し、襞となった箇所である。
6. 私が対峙する時、例えばリンゴの置かれた場所は私達に連続、共有するのではなく、リンゴが舟にあるとすれば私は岸にあり、岸にリンゴがあるとすれば私は舟にいるというように隣接の場を想像しなさい。
7. 二人並んで、例えば海に沈もうとする落日を見る。その時、二人の四ツの眼が隣り合う二ツの眼によって新たな人格を生むことが出来ないか。その人格が、落日を見るという風に。
8. 例えば犬吠埼の断崖の上で、横たわる一本の棒切れを踏んでいるとしよう。その棒切れは実のところ、巨大な環の一部…線分であった。足底を基点にその環を前に倒すとそこは大海であり、後に倒すと自分がここ断崖に至るまでの背後全体の空間、地面であろう。それではこの環を前に倒すか、後に或は垂直に立てたまま自分自身を前後に分かつか、どちらかを選んでみよう。
9. 向こうからやって来る人に向って歩み、進んでいることがある。一方は他方が去った地点を未来として向い、他方も一方が過去として去った地点を未来として進んでいる。しかし互いは衝突せず擦れ違う。その一瞬の擦れ違い、即ち両者の接近・隣接・離反の瞬間に生じる垂直膜面を認識できないだろうか。又その時の響きを聞きとれないだろうか。
10. 絵画を響かせる。

 中西夏之の絵画の美しさと理論の難解さのこの乖離! それがまた魅力なのだが。