なぜ日夏耿之介のポーの詩の訳文が大江健三郎の新作の題名に選ばれたのか

 大江健三郎の新作「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」の題名は日夏耿之介訳のポーの詩「アナベル・リイ」から採られたという。
 その日夏耿之介訳(講談社文芸文庫

ポオ詩集 サロメ―現代日本の翻訳 (講談社文芸文庫)
月照るなべ
臈たしアナベル・リイ夢路に入り、
星ひかるなべ
臈たしアナベル・リイが明眸俤(めいぼうもかげ)にたつ
夜のほどろわたつみの水阿(みさき)の土封(つむれ)
うみのみぎはのみはかべや
こひびと我妹(わぎも)いきの緒の
そぎへに居臥す身のすゑかも。

 阿部保訳(新潮文庫

ポー詩集 (新潮文庫)
というのは、月照ればあわれ
  美わしのアナベル・リイは私の夢に入る。
また星が輝けば、
  私に、美わしのアナベル・リイの明眸(ひとみ)が見える。
ああ、夜、私の愛する人よ、恋人よ、
私の命、私の花嫁のそばにねぶる。
  海沿いの墓のなか
  海ぎわの墓のなか

エドガー・アラン・ポーの原文

For the moon never beams, without bringing me dreams
Of the beautiful Annabel Lee;
And the stars never rise, but I feel the bright eyes
Of the beautiful Annabel Lee;
And so, all the night-tide, I lie down by the side
Of may darling----may darling----my life and my bride,
In the sepulchre there by the sea,
In her tomb by the sounding sea.

 まことに日夏耿之介は難しい。なぜ大江が日夏耿之介訳を選んだかは、名訳の誉れ高い若島正訳のウラジーミル・ナボコフ「ロリータ」(新潮文庫)の解説で大江が書いている。

ロリータ (新潮文庫)
 私は17歳の時、創元選書「ポオ詩集」でこの詩(「アナベル・リイ」)を発見し(実在する、私にとってはまさにそのような少女に会うことがなかったとはいわない)、占領軍のアメリカ文化センターの図書館で原詩を写した。日夏耿之介訳は次のようである。(略、引用されている原詩も略)
 少年の私が、なぜ日夏耿之介の翻訳の文体に魅きつけられたか? それは母国の現代語には無知で、家庭の事情から「唐詩選」はじめ漢詩になじんでいたからだ。それを手引にアメリカ文化センターの豪華本で見つけたポーの原詩は、私にいささかも古びたところのない、新しい英語とひとしいものに感じられた。その英詩と日夏訳との間の文体、声の落差がさらにも強く私を魅了したのである。それをきっかけに、これら二つの(時には三つの)言語の間を行き来することであじわいなれた恍惚が、いまも私の文学受容になごりをとどめている。

 大江の「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」を現代語で表せば「美しいアナベル・リイ 冷たくなって死んでしまった」くらいか。