中村稔「中原中也私論」を読んで

 中村稔の「中原中也私論」(思潮社)がすばらしい。これについては、三浦雅士毎日新聞12月13日の書評で紹介している。

 小林秀雄と中原と長谷川泰子の三角関係はいまや伝説だが、中原の戯曲「夢」は、小林と出会う前に中原が事件を予期していたことを示す。小林は泰子にではなく、中原に惹かれたから泰子を奪ったのである。協力しあったのだ。そんなことまで考えさせる。
 著者は、小林の「Xへの手紙」のXは中原のことであると考えていいと示唆している。(中略)
 圧巻は大岡昇平との関係を論じた最後の二章。知られているように、大岡なくして戦後の中原ブームはなかった。研究についても同じ。しかし、大岡は決定的に中原を誤解していた。敬意を払ったうえで、著者はそう述べている。中原の詩や資質をめぐる大岡の言説を吟味すると、確かに疑問の余地はない。

 中村稔は詩人でもあり、中原の詩の解釈は深く説得力がある。「中原中也私論」から引く。

「中原の心の中には、実に深い悲しみがあって、それは彼自身の手にも余るものであつたと私は思つてゐる。彼の驚くべき詩人たる天資も、これを手なづけるに足りなかつた」という(小林秀雄中原中也の思ひ出」の)第2章の冒頭もやはり中原の詩業に対する厳しい批判と読むことができよう。そのことを中原は知っていたから(小林に「お前の作品なんかなんだ」と罵られた時に)涙を流したのであって、小林らの文壇的地位に対する中原の嫉妬ではない。小林は詩人としての中原の天賦の資質を認めても、その作品には批判的であった。しかも、小林以上に中原の詩を、そして、中原という人格を理解する者はいなかった。長谷川泰子の問題を離れても、彼等二人の間にはそうした深刻な愛憎があった。
 中原には生前発表されなかった詩「曇つた秋」がある。その「1」は次のとおりである。


或る日君は僕を見て嗤ふだろう、
あんまり蒼い顔をしてゐるとて、
十一月の風に吹かれてゐる、無花果の葉なんかのやうだ、
捨てられた犬のやうだとて。


まことにそれはそのやうであり、
犬よりもみじめであるかも知れぬのであり
僕自身時折はそのやうに思つて
僕自身悲しんだことかも知れない


それなのに君はまた思ひ出すだらう
僕のゐない時、僕のもう地上にゐない日に、
あいつはあの時あの道のあの箇所で
蒼い顔して、無花果の葉のやうに風に吹かれて、−−冷たい午後だつた−−


しよんぼりとして、犬のやうに捨てられてゐたと。


大岡昇平は旧全集の解説に、この詩について「中原からこのように親密に「君」と呼びかけられる人間は、小林のほかにはいない」と書いている。

 圧巻だという大岡昇平との関係を論じた最後の二章を見てみよう。

 はじめに大岡が提示した設問に戻ってみたい。
「中原の不幸は果して人間という存在の根本的条件に根拠を持っているか。いい換えれば、人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか。おそらく答えは否定的であろうが、それなら彼の不幸な詩が、今日これほど人々の共感を呼び醒すのは何故であるか」。(中略)
 彼が「不幸」であったとすれば、彼が本質的な詩人であったために、決して克服できない矛盾をかかえ、そういう矛盾を意識し、そうした意識の下で、試作し、しかも生きていかなければならなかったことにあった。
 この「不幸」は、「玩具の賦」にうたわれたとおり、人間が玩具で遊ぶことを必要としている限り、いいかえれば、私たちが芸術を内心からの必然性として要求している限り、中原の「不幸」は普遍性をもっている。そして、その故にひろく読者をもつことはふしぎではない。だからといって、中原の詩を「不幸な詩」とみるのは思考の短絡である。
 大岡の中原との友情は、たぶん大岡の側の誤解のために、中原の生前、破綻していたのである。

中原中也私論」は優れた詩人論だった。それは読む前から予見していた。何しろ中村稔は版画家駒井哲郎の生涯を描いた「束の間の幻影」の著者なのだ。この伝記もすばらしいものだった。
 しかしなぜ狭い時代狭い地域に優れた才能が固まって出現するのだろう。小林秀雄中原中也富永太郎吉田秀和大岡昇平といった人たちが。

中原中也私論

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