筒井康隆『創作の極意と掟』を読んで

 筒井康隆『創作の極意と掟』(講談社)を読んだ。「序言」に執筆の意図が書かれている。

 この文章は謂わば筆者の、作家としての遺言である。その対象とするのはプロの作家になろうとしている人、そしてプロの作家すべてだ。プロの作家に何かを教えようなどというのは僭越極まりないことであるが、あくまで遺言なのだから、作家歴60年になる筆者の言葉から何か気づくものや参考になることを一つでも汲取っていただければありがたいと思う。(後略)

 プロの作家が対象だと言っているが、なに小説好きの人なら誰が読んでも面白いだろう。あの筒井康隆が書いているのだ。でも特に筒井康隆ファンこそ最適な読者だろう。筒井が自分の小説をネタに執筆の分析をしているのだから。「凄味」「色気」「揺蕩」「破綻」など31の見出しを立てて解説している。「反復」という章ではほとんど自分の作品『ダンシング・ヴァニティ』の分析・解説になっている。
 島田雅彦「未確認尾行物体」は第1回三島由紀夫文学賞の候補作品だった。選考委員の大江健三郎が推し、筒井が反対した。中上健次も筒井に同意し、江藤淳もこの作品には否定的で、結局この作品は選に漏れた。江藤が否定的だったことについてこんな風に書いている。

江藤淳もこの作品には否定的だった。だいたい江藤氏が嫌う作家には2種類あって、それは医者と美男子である。だから島田雅彦はもちろんのこと、どうもおれや宮本輝も嫌われていたのではないかと思うがそれはどうでもよい。

 最後の章「幸福」で小説家の不幸と幸福が語られる。

 いったい小説家の不幸にはどんなものがあるのか。ニュースを着想に利用しようとして本質が見えなくなる。ファンと称する莫迦(ばか)から手紙や電話がくる。執筆活動のため社会と疎遠になる。自分の名前を知らぬ人間が腹立たしい。作品世界にのめりこんで自分の人生が犠牲になる。「三文文士」「もの書き風情」などと言われる。ろくな批評が出ない。金銭に恬淡としている態度を示さねばならず、だから安い原稿料を支払われ、講演料も安く、文句を言えば金に汚い先生と言われる。読んでくれと素人の原稿が送られてくる。理解者が少ない。のっけから共産主義者だと思われている。バーやクラブへ行っただけで「堕落した」と言われる。マスコミの取材はこちらの話を聞かずつまらない質問ばかりであり、重要な部分をカットし、ひどい顔写真を撮って載せる。本を読んだというだけの見知らぬ輩が気安く話しかけてくる。基地外の人が自宅にやってくる。自分を見て子供が泣いた。犬に吠えられた。じろじろ見られる。こっちを見て小突きあう。テレビ局では芸人と同じ楽屋だ。社会運動から寄附を求められる。生活時間が不規則になった。家族まで莫迦にする。とどめは有名になり過ぎると遺族が面倒がって葬式を出してくれない。

 つぎに小説家の幸福について。

食通と思われ、料理店ではいい席に案内され、料理も旨い。文藝春秋の庄野音比古によれば「この店は一人で来るといつも不味いのに、筒井さんと来るといつも旨い」のだそうである。気難しいと思われ、だいたいは丁重に扱われる。社会的発言力ができた。多少の非常識が許してもらえる。我儘を言うと喜ばれることがある。本が無料で贈呈されてくる。映画の試写会や芝居に招待される。編集者を通じて偉い人や専門家に取材ができる。夜更し、朝寝坊をいくらしてもいい。作家同士の交際ができ、小説に関する知識がどんどん増える。厄介な資料集めを編集者がやってくれる。ラフな服装でどこにでも行ける。背広を着なくていい。莫迦なことを言っても笑われず感心される。自分をいじめた連中を見返してやれる。自分を莫迦にした奴らを莫迦にできる。いい着想がなくてその時の大事件を作品に書いても、かえって話題になり評判がよい。見知らぬ人とも話ができる。家族から尊敬される。そして何と言ってもプロの小説家になれたのだという満足感。……。

 本文中に1章が立てられている「反復」を実践してみせている。またどこかの作家への皮肉が綴られ、幸福と不幸を列挙することをおちょくってもいる。筒井康隆は達者なのだ。


創作の極意と掟

創作の極意と掟