福島正実『未踏の時代』を読む

 福島正実『未踏の時代』(ハヤカワ文庫)を読む。副題が「日本SFを築いた男の回想録」とある。早川書房から刊行された雑誌『S-Fマガジン』を企画し初代編集長を務めた福島自身の回想録だ。
 福島は明治大学文学部を中退し、早川書房に入社する。早川書房は1956年にミステリ雑誌『EQMM(エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』を創刊し、都筑道夫が編集長をしていた。福島は都筑とともに、「ハヤカワ・SF・シリーズ」を立ち上げ、海外SFを刊行していた。その都筑の提案で、1960年に雑誌『S-Fマガジン』を創刊した。「ハヤカワ・SF・シリーズ」とは、ブラウン『火星人ゴーホーム』、アシモフ鋼鉄都市』、ウィンダム『呪われた村』などだった。
 当時、元々社が「最新科学小説全集」を発刊していた。ハインライン人形つかい』、ブラウン『発狂した宇宙』、ブラッドベリ『火星人記録』、シェクリイ『人間の手がまだ触れない』等々だ。懐かしい! 飯田市立図書館に通って読んだのだった。SFっていう、こんなすごい世界があるんだと興奮した。高校の図書館にはなかった。
 しかし、その後元々社のことを聞いたことがない。どうしたのだろうと思っていた。元々社は倒産したと福島が書いている。

……挫折の原因として見逃せないのは、元々社版のSFの翻訳の、あまりのお粗末さです。じっさい、ある程度以上の評判になり、20冊連続刊行された海外小説シリーズで、およそこれほどの誤訳悪訳珍訳ぞろいの欠陥翻訳を並べたものは、他に類をみなかったといっていい。

 そんなにひどかったのか。上記のSFはみんな読んだが、そんなことはちっとも分からなかった。
 福島は日本のSFの向上を策して、無知な評論家などと論争する。アメリカで流行っていたスペース・オペラの紹介を避けるようにした。「SFを荒唐無稽なポンチ絵まがいと――知能指数のひくい幼児性精神が描きだす幼稚な妄想のたぐいと見られるのを、極度におそれていたからである」。
 日本でも新人SF作家が現れてきた。星新一小松左京光瀬龍筒井康隆豊田有恒広瀬正半村良などだ。福島はプロの作家集団「SF作家クラブ」を組織する。そんなことにも強い批判はあった。有力なSF同人誌「宇宙塵」の側からの反発だった。
 福島は雑誌を編集し、他社も含めてSFに関する出版の企画を練り、評論を書き、ハインラインの『夏への扉』、クラーク『幼年期の終り』、アシモフ鋼鉄都市』などを翻訳し、自分でもSF小説を執筆する。読売新聞の荒正人のSF批判に対して論争を仕掛け、座談会まで開催する。
 1967年に福島は国際SFシンポジウムを企画する。海外から招待するSF作家は4人、アメリカのロバート・ハインライン、イギリスのA. C. クラーク、ソ連のA. ストルガツキーポーランドスタニスワフ・レム。この人選はすばらしい。ストルガツキーとレムは世界でも最強のSF作家だ。日本側のメンバーは、安部公房星新一小松左京らを考えていた。シンポジウムを福島は早川書房講談社との共催でやろうと計画するが、講談社の賛成が得られなくて挫折する。とても残念に思う。
 ここまで書き続けたところで、福島は病で倒れた。1976年4月10日、享年47歳だった。本回想録はここで中断した。福島正実はまさに日本のSFを育て上げた人だった。
 中断した1967年から亡くなった1976年までの10年間に福島は「覆面座談会」とやらを企画し、それが原因で荒れて、福島は早川書房編集部長とSFマガジン編集長の職を辞し、執筆に専念することになったと、解説で高橋良平が書いている。何があったのだろう。
 それにしても、早川書房の編集者たちはみな筆まめだ。本書をはじめ、宮田昇『戦後翻訳風雲録』、常盤新平『翻訳出版編集後記』、生島治郎『浪漫疾風録』、小林信彦『四重奏 カルテット』などなど。どうしてだろう。


未踏の時代 (日本SFを築いた男の回想録) (ハヤカワ文庫JA)

未踏の時代 (日本SFを築いた男の回想録) (ハヤカワ文庫JA)