「気まぐれ美術館」の洲之内徹と若栗玄という画家

 「気まぐれ美術館」は長年「芸術新潮」に連載された人気エッセイだった。著者は洲之内徹で銀座のギャラリー「現代画廊」のオーナーだった。若いころ芥川賞候補にもなった人で文章がうまかった。「気まぐれ美術館」は絵を巡るエッセイで、絵についてはもちろん画家のことや果ては自分の女性関係のもつれまで書いていた。雑誌への連載は6冊もの単行本になり、一部は文庫になっている。(「絵のなかの散歩」「気まぐれ美術館」「帰りたい風景ー気まぐれ美術館」「セザンヌの塗り残しー気まぐれ美術館」「人魚を見た人ー気まぐれ美術館」「さらば気まぐれ美術館」いずれも新潮社)
 この洲之内徹が出身地の愛媛新聞へ連載したエッセイに他の雑誌へ連載したものを集めて、最近と言っても3年ほど前に世界文化社から発行したのが「芸術随想 おいてけぼり」だ。一読ひどい編集だと思った。テキストと図版の関係が分かりづらい、編集方針がどこにも書かれていない、著者が存命だったらこんな本は発行させなかっただろう。
 ただ私にとっては拾いものだった。懐かしい若栗玄さんの事が書かれていたのだ。現代画廊で何度か若栗玄さんの個展が開かれていたことは知っていた。しかし画家についてマスコミに書いていたことは知らなかったのだ。愛媛新聞の連載は画家のドローイングを1点紹介し、洲之内の短い文章を付けている。
芸術随想 おいてけぼり

 若栗玄「村の舞台」
 若栗さんは、十年ほど前には、いまと違う名前で「自由美術展」に出品していた。僻地教育への情熱に燃え、奥さんとふたりでいまの場所ーー長野県北安曇郡美麻村高地ーーに移り住んだが、戸数八十戸の村で、いま人が住んでいるのは四戸だけ、分教場も廃止されて、建物は鉱泉宿になった。それもいずれなくなるだろうから、あるうちにいちど遊びにくるようにと、私は若栗さんに言われているが、まだ行っていない。
 この絵の舞台は村のお宮の境内にあるとのこと。廻り舞台になっているらしい。しかし、ここに芝居が掛かっているのを、若栗さんもいちども見たことがない。

 若栗玄「鹿島槍遠望」
 右に見ゆるが鹿島槍。左に見ゆるが爺ケ岳。若栗さんの住んでいる美麻村へは、信濃大町から若栗峠を越えて行く。その峠に立って振り返ると、この絵のとおりの景観になる。若栗さんは、昔、自由美術に出品していたときには若栗という名前ではなかった。ここへ住むようになって、この峠の名をとって、自分の名にしたわけである。いきさつは言わないことにしよう。先日、「朝日新聞」の長野版には、〈過去を捨てた男〉という見出しで、彼のことが出ていた。
 美麻村は過疎の村である。もとは百戸くらいあった家が、いまは若栗さんも含めて、人の住んでいるのは二戸か三戸しかない。廃校になった小学校の分校が、沸かし湯の温泉になっていたが、それもこの(昭和53年・1978年)三月で閉鎖になる由。この分校が五百万円、もひとつ、四棟の校舎のある中学が三千万円で売りに出ている。買う人はありませんか。

 この「鹿島槍遠望」の図版に編集部がつけたキャプションが次の文章だ。

若栗玄「鹿島槍遠望」 若栗は大正15年(昭和元年・1925年)長野県生まれ。東京美術学校(現・東京芸大)師範科中退。昭和30年から同35年まで「自由美術家協会展」「日本アンデパンダン展」に出品。現代画廊での個展は水彩画展が多かったが、同56年の初の油絵展の案内状で著者(洲之内)は、「若栗さんは自分の信条にとじ籠っている。自分の眼に美しく見えたものを見えるままに描く、とでも言おうか。私に異論がないわけではない。しかし、彼の生活と仕事ぶりを見ると、軽々しく私の意見などは言えない。彼がそのように歩き、その道に徹し、その道を深めて、いい仕事をすることを念じ、また信じるだけだ」と記している。

 若栗さんは山本弘の親しい友人だった。私は子どもの頃からお世話になった。ハンサムで学識があり人望があった。なぜ過去を捨てたのだろう。東邦画廊で山本弘展が開かれた折り、年譜を作成するために若栗さんに手紙を書いた。山本弘の年譜を作りたいので協力してください。対して、私は過去を捨てました。過去について話したいというのなら会うことはありません。巻紙に書かれた手紙はとりつく島がなかった。
 洲之内が亡くなった後、若栗さんは銀座の美術ジャーナル画廊で個展を開いた。そのことを知ってオープニングパーティーに顔を出し挨拶をした。25年ぶりの再会だったろうか。画廊主がこちらはどなたですの? と若栗さんに聞いた。東邦画廊で個展をやっている山本弘の応援をしている人です。
 年賀状を送り始めてから返事をいただくまで10年ほどかかり、その後ようやく長野市で開く個展の案内状をいただいたのだった。