熊野純彦の外国語学習

 熊野純彦は私が贔屓にしている哲学者だ。廣松渉の弟子であり、多くのすぐれた著書がある。哲学書の翻訳も多い。その熊野純彦が「語学との付き合い、思い出すまま」というエッセイを書いている(『図書』2024年6月号)。

 熊野は英語のほか東大で第2外国語としてドイツ語を学んだ。フランス語は第3外国語の授業に1回だけ出ただけで、あとは独学で学んだ。その後も古典ギリシア語、ラテン語などを少し学んでいる。

 若い同業者から、「語学お得意なんですよね」と言われた。しかし、多くの翻訳書を出している熊野は次のように書いている。

 語学が得意であることのうちには、今日ではふつう、会話に堪能であることも含まれているように思われる。そうであるとすれば、ことはきわめて簡単で、わたしはまったく語学ができない。英語であれ、フランス語、ドイツ語のいずれであっても、挨拶ひとつ満足に交わせないし、まして母語の話者を相手に議論など戦わせたこともない。

 

 熊野は最初、半年でドイツ語の初等文法を終えてすぐ、カントの『純粋理性批判』を読み始めた。まずドイツ語テクストを1ページ読み(あるいは眺め)、すぐに翻訳文を熟読してから、もういちど原文に立ちもどってみる。「初版への序文」からはじめて、例の空間論に辿りついたところで(もっとも一般的な原文テクストで60ページくらいまで到達した地点である)、ようやく補助輪を外し、つまり翻訳から離れて原文テクストを理解しはじめたような記憶がある。これは小林秀雄の読書術にも近かったようであるとも書いている。

 

 世の中は英会話を学ぶのがブームのようになっている。幼少のころから英語を学ぶ塾に通わせる親も少なくない。しかし、オランダのハーグの国際裁判所に勤める人が、どんなに外国語が話せても読み書きができなければビジネスに使えないと書いていたし、昔ちょっと知り合った日本人の青年が、若い時ブラジルへ渡ってポルトガル語はペラペラなのに、読み書きができなくて仕事がないと嘆いていたのを思い出した。宇宙物理学者の須藤靖も、英会話は今後スマホのアプリが代行するようになるだろうから、幼いころから学ぶ必要はないと言っていたし。

 

 熊野純彦のエッセイはこちらでも読むことができる。

https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/8079