熊野純彦『サルトル』を読む

 熊野純彦サルトル』(講談社選書メチエ)を読む。熊野純彦廣松渉門下の優れた哲学者、サルトルは若い頃夢中になって読んだ哲学者、では読まずばなるまい。それにしても熊野純彦はドイツ哲学が専門でレヴィナスの研究者なのに、サルトルに対するこの理解力は何なのか。難解な廣松渉の一番弟子という優秀さのせいなのか。最近は『本居宣長』に関する大著もあるほどだ。

 サルトルは哲学者にして小説家、劇作家、政治思想家等々の側面をもっている。熊野はサルトルの哲学的側面を取り上げる。それも主著『存在と無』に注力し、後期の『弁証法的理性批判』については、「現在の眼から見てこの浩瀚な著作が巨大な失敗作であったことはほとんど覆いがたい」(「おわりに」)と、切り捨てる。

 サルトルは対自存在と即自存在を追求する。いっさいの意識はなにものかについての意識である。言いかえれば超越的な対象の定立ではないような意識は存在しない。意識が、みずからを超越して自体的に存在する対象についての意識であることは、意識が即自としてのその対象を定立することとひとしい。対象についての定立的な意識のうらがわには非定立的意識が貼りついている必要がある。

 やっぱりすごく難しい。それでも今まで読んだサルトル論のうちでは最も分かりやすく魅力的だ。おそらくもう『存在と無』を読み直すことはないだろうから、本書を何度か読み直さなければならないだろう。