山田風太郎『戦中派不戦日記』を読む

 山田風太郎『戦中派不戦日記』(角川文庫)を読む。山田風太郎がまだ医学生だった昭和20年、22歳から23歳の1年間の日記全文。山田は新宿にあった東京医専、のちの東京医科大学の学生だった。太平洋戦争は大日本帝国の末期にあたり、日記の前年昭和19年から米軍のB29による東京空襲が開始される。

1月21日(日) 曇
 ○べつに今の病気より考え出したるわけではないけれども、余は死を怖れず。勿論死を歓迎せず。死はイヤなものなり。第一解剖台上の屍体を見るも、死はイヤなものなり。しかれどもまた生にそれほどの未練なし。生を苦しと思うにあらざれど、ただくだらぬなり。金、野心、色欲、人情、もとよりわれもこれらより脱する能わず。しかれどもまた実につまらぬものにあらずや。50年の生、これらの万花万塵の中に生きぬきて、しかも死や必ずこれにピリオドを打つ。而してその後にその生を見れば、その生初めよりこの地上になきも殆ど大差なし。

 3月10日の日記には東京大空襲が記されている。「午前零時ごろより3時ごろにかけ、B29約150機、夜間襲撃。東方の空血の如く燃え、凄絶言語に絶す。/爆撃は下町なるに、目黒にて新聞の読めるほどなり」。
 午後友人松葉と本郷へゆく。

 自分と松葉は本郷に来た。
 茫然とした。――何という凄さであろう! まさしく、満目荒涼である。焼けた石、舗道、柱、材木、扉、その他あらゆる人間の生活の背景をなす「物」の姿が、ことごとく灰となり、煙となり、なおまだチロチロと燃えつつ、横たわり、投げ出され、ひっくり返って、眼路の限りつづいている。色といえば大部分灰の色、ところどころ黒い煙、また赤い余炎となって、ついこのあいだまで丘とも知らなかった丘が、坂とも気づかなかった坂が、道灌以前の地形をありありと描いて、この広漠たる廃墟の凄惨さを浮き上がらせている。(中略)
 われわれは冷静になろう。冷血動物のようになって、眼には眼、歯には歯を以ってしよう。この血と涙を凍りつかせて、きゃつらを1人でも多く殺す研究をしよう。
 日本人が1人死ぬのに、アメリカ人を1人地獄へひっぱっていては引合わない。1人は3人を殺そう。2人は7人殺そう。3人は13人殺そう。こうして全日本人が復讐の陰鬼となってこそ、この戦争に生き残り得るのだ。自分は歯を食いしばって碧空を見た。日は白く、虚しく、じっとかがやいていた。

 この日の日記は文庫本で10ページを超えている。

5月2日(水) 雨
 ○ヒトラー総統ついに死せりとのニュース放送されたり。
 自殺か、戦死か、横死かいまだ判明せず。この大戦終焉ちかき号砲なるか。
 近来巨星しきりに堕つ。ヒトラーの死は予期の外にあらずといえども、吾らの心胸に実にいう能わざる感慨を起さずんばやまず、彼や実に英雄なりき!
 当分の歴史が何と断ずるにせよ、彼はまさしく、シーザー、チャールス12世、ナポレオン、アレキサンダー、ピーター大帝らに匹敵する人類史上の超人なりき。吾らは彼を思うとき、彼と同じ空の下に生くるを想うとき、今が悠遠の世界史上、特記さるべき英雄時代、暴風時代、恐怖時代、栄光時代――いわゆる歴史的時代なることに想到せずんばやまず、一種異様の興奮を覚えざるを得ざりき。

 5月24日午後零時過ぎ、東京西部をB29の大編隊が襲う。山田の日記は23日でいったん途切れ、後日5月24日から6月5日までに日記がまとめて書かれる。山田も被災したのだ。その24日の日記は空襲に逃げ惑う臨場感あふれる姿を12ページにわたって書き記している。25日は焼け跡を見に行っているがまたしても大編隊の空襲を受ける。
 下宿は焼け落ち、住むところがなく、一時友人の実家がある山形へ行くことになる。6月2日に再び上京。しかし住むところがないので、故郷の兵庫へ帰ることにする。

6月9日(土) 曇後晴
 ○夕、突如悟りをひらきたるごとく日本の必勝を信ず。自分自身が、追いつめられ攻め寄せらるる日本人の一人なることを思うときは、心配なり、苦痛なり、恐怖あり。しかれども眼を離して、日本人とアメリカ人の頭上より俯瞰するとき、本土上陸恐るるに足らず、剽悍勇猛の日本人1億、何とて長躯して来れる驕慢のアメリカ人にむざと敗れんや。血風下に必ずや彼をして絶望の剣を投げしむること不可能にあらずと信ず。

 6月12日再度東京へ向かう。6月14日、学校が東京を逃れて長野県飯田に疎開することなにったとの告示あり。6月25日10時10分、新宿駅を出発する。午後9時過ぎに飯田へ着く。市内各地に分宿し、こちらで授業が再開される。
 8月10日、ソ連が満ソ国境の数か所から攻撃を開始したというニュースが流れる。「日本人の大部分は、理性的にはこの戦争には勝てまいと考えている。しかし感情的には、まさか負けやしないだろうとまだ考えている」。どうせ負けるなら、なるべく早く降参して、ともかく日本という国を存続させ、そして百年の後を期するという考え方がある。最後の一兵まで戦うのみだという考え方もある。

 自分は考える。どれも尤もである。/しかし、やっぱり戦った方がよい。金輪際まで戦って、血みどろに戦って、まさしく弾尽きれば石を投げ、石果てなば歯で噛むというところまで戦って――そうして失神的敗北の日を迎えたら、それは吾々の時代は悲惨だろう。後代千年の後までもその物質的影響は残るであろう。/しかし、その誇りは子孫の胸に残る。

 8月14日は18ページにわたって、学生仲間たちと徹底抗戦について議論している。檄文を書き街に貼って、運動を飯田市から長野県全県に拡げ、全国の学生に連絡して相呼応して起とうと、興奮して書いている。そこへ別の友人が現れ、計画に水を差す。時計が4時を打ち、鶏が鳴いた。興奮が覚めていく。

8月15日(水) 炎天
 ○帝国ツイニ敵ニ屈ス。

 8月16日になって、昨日の事が詳しく綴られる。1日の日記としては最も長い22ページを費やしている。「戦いは終った。が、この1日の思いを永遠に銘記せよ!」と書く。
 やがて学校はまた東京へ移転する。東京にはアメリカ兵が大勢駐屯している。彼らの明るい性格に驚く。軍備や物量の違いを眼にする。

12月31日(月) 大雪
 ○雪降りに降る。けぶる林の中に、雉子の声、山鳥の声、樫鳥の声、ひよどりの声。
 ○運命の年暮るる。
 日本は亡国として存在す。われもまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。いまだすべてを信ぜず。

 ここにきて、坂口安吾の『堕落論』を思い出さずにはいられない。
 またフランスの哲学者リュシアン・ゴルドマンの「可能意識」という概念を思い出す。ゴルドマンは、現実意識と可能意識という2つの概念を提示し、集団の現状の意識=現実意識に対して、可能意識とは環境等の変化によってその集団が変化しうる意識とした。リュシアン・ゴルドマン『全体性の社会学のために』(晶文社)より。

 このような社会学(あらゆる現代の社会学)は、その記述の方法、その調査の方法をとおしてただたんに、人々が現実に考えていることにしか関心をもたない。ところが現在において用いられている方法よりも、ずっとはるかにはるかに完全なものと考えられるいくつかの方法を用いた、可能なかぎり正確な調査が1917年1月のロシア農民に関して行われていたならば、かれらの大多数はツァーにたいして忠実であり、ロシアにおける君主制の転覆の可能性さえ考えてもみなかったことをおそらく確認していたであろうーーその年の終りには農民の現実意識はこの点について根本的に変った。
 したがって問題は、ある集団がなにを考えているかを知ることではなくて、集団の本質的な性格に修正を加えることなしに、その意識のなかに生じうる変化がいかなるものであるかを知ることである。

 山田風太郎も日本人も変化していったのだ。


「ホンダのオートバイ開発、また可能意識という概念」(2007年7月31日)

全体性の社会学のために (1975年)

全体性の社会学のために (1975年)