原武史『象徴天皇の実像』を読む

 原武史『象徴天皇の実像』(岩波新書)を読む。副題が、「『昭和天皇拝謁記』を読む」というもの。政治学者の原武史が、田島道治がまとめた昭和天皇とのやりとりを記した『拝謁記』を分析したもの。田島は戦後の2代宮内府長官、次いで初代宮内庁長官を務めた人物。その宮内府長官時代から宮内庁長官退任までの「日記」と関連資料を合わせたものが『昭和天皇拝謁記』(岩波書店、全7巻)だ。

 とにかく面白い。昭和天皇のプライベートな心情や発言が生のまま紹介されている。

 戦後憲法について、天皇の本音は、独立回復を機に憲法を改正し、第9条の条文を改めて再軍備を明記することにあったのではないかと原は書く。

 

 なぜ朝鮮半島で戦争が起こるのかにつき、天皇はこう言っています。

 

朝鮮は常にいづれかに隷属してた国民だから、どうも武か何か圧力で行くより仕方のない人種だよ。日本も鴨緑江でやめておくべきであつた。軍人が満洲、大陸と進出したからこういふ事になつた(1953年6月24日)

 

「日本も鴨緑江でやめておくべきであつた」という天皇の発言は重大です。鴨緑江北朝鮮と中国の境を流れている大河ですから、1910(明治43)年の韓国併合は正しかったのであり、満州に進出してからおかしくなったという天皇歴史認識があらわになっているわけです。

 

 昭和天皇は母である皇太后節子を恐れていた。皇太后天皇の確執は敗戦までずっと続いていた。皇太后は空襲が激しくなる45年になってもなお「かちいくさ」を祈り続けるなど、戦勝に固執した。皇太后を恐れていた天皇は、その意向に逆らうことができなかった。

 皇太后が亡くなった後、遺書が発見された。その遺書は公表されていないが、秩父宮三笠宮には何か由緒ある家宝となるようなものを上げたいと書かれているようだ。それが「三種の神器」を指しているかもしれないと天皇が心配している。秩父宮三笠宮に「剣璽」を渡せば、皇太子裕仁天皇になれないことを意味した。

 戦後、岸信介が追放解除になったことに天皇は強い疑問を投げかけている。賀屋興宣に比べて主戦的なのは岸だと言っている。賀屋が巣鴨(刑務所)で岸が追放解除は失当だと。

 昭和天皇終戦後一時カトリックに改宗する可能性があったが、仏教に対してはそっけない態度をとっていた。

 「国体」について、

天皇にとっての「国体」もまた、『国体の本義」(文部省、1937年)で「大日本帝国は、万世一系天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」と規定されたものとは違っていました。終戦詔書で「朕ハ茲(ここ)ニ国体ヲ護持シ得テ」と言ったときの「国体」は、そのような言説化されたものではなく、戦前からの度重なる行幸や親閲式を通して視覚化されたものでした。「君が代」の斉唱や万歳、分列行進などを通して、天皇と万単位の臣民が一体となる「君民一体」の光景こそ、天皇にとっての「国体」にほかなりませんでした。1946年から始まった戦後巡幸を通して、天皇は「国体」が護持されていることを体感していったのです。

 

 皇太子妃(現上皇妃)は第2子を流産した頃、精神的危機に陥った。その危機を救うべく田島道治が皇太子妃に紹介したのが神谷美恵子だった。その時期は、宮中で「魔女」と呼ばれる女官が暗躍する時期と重なっていた。この「魔女」とは皇太后が亡くなってからも女官として宮中に残った今城誼子(いまきよしこ)のことだと言う。

 きわめて興味深い内容だった。いずれ同じ著者の『昭和天皇』『「昭和天皇実録」を読む』『平成の終焉』(いずれも岩波新書)、『大正天皇』(朝日文庫)なども読んでみたい。