上田正昭『私の日本古代史』を読んで

 上田正昭『私の日本古代史』(新潮選書)上下2巻を読む。85歳になった古代史学者が、その研究成果を一般読者向けに集大成したもの。さすがに、日本の古代史研究の現在がコンパクトにまとめられている。上巻の副題が「天皇とは何ものか−−縄文から倭の五王まで」、下巻が「『古事記』は偽書か−−継体朝から律令国家まで」と幅広い。
 体系的に語られ、教科書としても使えそうなのだが、古田武彦のシンパとしては受け入れがたい種々の問題がある。
 倭の五王は中国の史書に語られながら、記紀には対応する記事がない。日本にはその「讃、珍、済、興、武」と続く王たちの名前もない。こじつけのように、武がワカタケル(雄略天皇)の音訳表記、珍はミヅハワケのミヅ(瑞)の音訳表記と思われるなどと書いている。『宋書』が親子、兄弟とするのに、比定された日本の天皇たちの関係とは全く一致しない。
 古田武彦は、近畿王朝の前に九州王朝があったとするから、『宋書』の倭の五王は九州王朝の大王だったとする。この九州王朝の考えを採用すれば、聖徳太子が「日出ずる処の天子」と称して、隋の煬帝が激怒したことについて全く新しい見解が示される。

 煬帝が激怒した理由を、俗説では東夷の倭国自らが、「日出ずる処」と称し、中華の国である隋を「日没する処」と表現したところにあるという。(中略)
 問題なのは、東夷の倭国の王者が「日出ずる処の天子」を名乗った箇所にあった。「天子」は中国皇帝のみが使いうる称号であることは倭国の太子たちも充分理解していたはずである。それなのになぜ「天子」を称したのか。そこには、この派遣を進めた太子らに、国際関係における「和」は、自主対等でなければならないとする理念が投影されていたからではないか。

 全く笑止である。「国際関係における「和」は、自主対等でなければならないとする理念が投影されていたから」とは、何という時代錯誤であることか。
 古田は、西晋が滅んだ後には、隋も倭も同等だという認識から、倭の王多利思北孤(たりしほこ)が「日出ずる処の天子」と称したのだと言っている。手紙の同時代では日本の天皇は女性の推古天皇だった。妻のいる多利思北孤を、だから聖徳太子に比定したのだ。大きな無理がある。
 さらに上田は書く。

 坂本太郎博士の指摘のとおり、「白鳳」・「朱雀」がたしかな年号として使われた形跡は全くない。

 これも古田の主張する九州王朝の九州年号の考え方を採用すれば、近畿王朝の前にあった九州王朝が使っていた年号が、歴史の隙間から近畿王朝の歴史に紛れたのだと理解できる。
 そろそろ日本の古代史学会も古田学説を採用すべきだろう。