知らないものは見ることができない

 以前植物病害事典の編集を手伝っていた。何しろ植物病害の写真を数千枚収集しなければならない。広く各方面へ手を伸ばして探してもいたが、自分たちで撮影もしていた。
 夏休みでカミさんの実家へ行ったとき、昨年私が植えたヤマユリが無残な姿をさらしているのを見た。葉がほとんど落ちて茎だけになり、白い蕾には茶色のしみができていた。いつもの大輪の花が見られないのを残念なことだと思った。
 後日そのときのヤマユリが植物病害事典で必要なユリ葉枯病だと知った。落葉したり蕾に茶色の病斑ができるのはユリ葉枯病の典型的な症状なのに、そのことを知らない私にはそれが見えなかったのだ。知らないものを見ることはできない。
 知らないものは見ることができないのだ。今までどんなに多くの重要なものを見逃してきたのだろうか。
 と同時に、見ることができるものは知っているものだという結論に至る。そうなのだろうか。


 今枝由郎「ブータンに魅せられて」(岩波新書)を読んでいる。著者がブータンの高僧メメ・ラムの葬儀に参列したときのことが書かれている。「荼毘の白い煙は微風に煽られ立ち昇り、上空で形を微妙に変えつつ、いつしか虚空に消えていった。」そして、翌日人びとによって葬儀のことが次のように語られていた。

 昨日、メメ・ラムの遺体が荼毘に付されると、白い煙が立ち昇り、それが次第に鳥のような形になり、やがて一羽の白鳥が天空高く舞い始めた。そして、ホンツォ寺院の上空を数周すると、あたかも名残を惜しむかのように東の空に飛び去り、見えなくなった。
(中略)
 この話を聞きながら、わたしは唖然とした。同じ葬儀の場に居合わせながら、わたしには煙しか見えなかった。この時ほど、自分とブータン人の意識の次元に本質的な違いがあるのを感じたことはなかった。どこか自分に空しさに近い悲しさを感じ、拭い去ることができなかった。

 今枝由郎「ブータン仏教から見た日本仏教」(NHKブックス)は、仏教研究の中心であるフランスに学び、ついで原始仏教に最も近いブータン仏教に学ぶべくブータンに10年間滞在した著者の、日本仏教への批判が書かれていてとても面白かった。