省略の技法

 金井美恵子「小説論」(朝日文庫)には「映画・小説・批評ーー表象の記憶をめぐって」と題された城殿智行によるインタビューが載っている。そこから映画と小説の省略の技法が語られているところを紹介する。

城殿智行  書き方のお話も少しうかがいたいのですが、メロドラマにかぎらず、映画にはルビッチ以来脈々と続く省略の技法があります。たとえば「結婚哲学」でしたか、男女をテーブルの前へすわらせて、いよいよこれから濃厚なラブシーンになるっていう瞬間に、テーブルへのせてあったティーカップだけを写すようにして、何しろ濃厚だから、お茶をこぼさないように男がすっとカップを遠ざける、それだけですべてを暗示するような技法は、そのころからすっかり完成されていて、いい映画作家たちはそれを覚えてきたはずだと思うんです。
金井美恵子  ええ。もちろんそれには「コード」で決められた細かい禁止項目があったからですけれど。MGMにゴールドウィンというユダヤ人の大プロデューサーがいますが、サイレントの時代に「男と女がエレベーターに乗っている。その二人が結婚しているか結婚していないかを一つの場面でどういうふうにわからせることができるか」と若い監督だったかシナリオライターに聞いたというんです。そうすると、一場面では夫婦かどうかなんてもちろんわからない。例えば指輪を映してみたところで、二人が本当の夫婦かどうかはわからない。でも、ゴールドウィンにはすごく簡単なことだというのね。夫婦だったら男が帽子を脱いでいない、というんです。
城殿  なるほど(笑)。
金井  男が帽子を被らなくなって、マナーが存在しなくなって以後、通じないエピソードになってしまったのですけれど。そいうふうなすごく完成された省略法があるわけです。それは映画のもので、小説と直接関係するわけじゃないんだけれども、小説を書く人間の中にもさまざまなメチエ(技法)、知識とか体験として蓄えられているはずです。
城殿  小説と直接は関係ないっておっしゃっても、特に目白四部作や「恋愛太平記」をお書きになるときなんて、それがもう縦横無尽に駆使されていますね。たとえば芳川泰久さんが以前「恋愛太平記」について、あの一家のお父さんの死の瞬間が描かれていなくて、後になって三回忌として描かれる、あそこがラカンのようにすばらしい(笑)、そういうふうにおっしゃっていて、美恵子さんが「それくらいは当然よ」とお答えになったことがありましたけれども、それこそ映画的な省略の技法って、メロドラマではないですけれども、ルビッチ以来脈々と形づくられてきたものだと思うんです。

 そのように省略の技法が身に付いている欧米の映画評論家が小津安二郎の「東京物語」だったかを見て、笠智衆のお父さんと娘が旅館の一室に布団を並べてぼそぼそ話ながら明かりを消して寝る、そして映画は翌朝の何でもない会話に移る、これを指して昨夜親子二人の間に関係があったと深読みをする、それも一人二人の評論家でなく。日本人ならそうは決して思わないのに。
 私はここで欧米の評論家を駄目な例としてあげているのではなく、それほどまでに省略の技法が一般化していることを指摘したいのだ。
 それで思い出したが、「ルパンIII世」の初期はモンキー・パンチが描いていたので、コマの飛躍(省略)がすごかった。疲れているときには読めないマンガだった(飛躍を理解するために頭を使わなければならなかったから)。「週刊漫画アクション」に連載されていた35年も前のことだ。まもなくモンキー・パンチは名義だけ貸して自分では描かなくなり、その結果飛躍のない分かりやすいマンガに変わったのだった。