金井美恵子『新・目白雑録』を読む

 金井美恵子『新・目白雑録』(平凡社)を読む。このシリーズも6冊目となったが、朝日新聞出版のPR誌『一冊の本』の連載が昨年9月号で終わり、これが最終巻ということになる。『一冊の本』は金井を読むために定期購読していたので、次回の定期購読を更新するか思案中。
 「目白雑録」の連載は2002年の4月号から始まっていたので、ざっと13年半にも及んでいたことになる。さすがに最近は金井の毒舌もだいぶ薄まってきている印象があるものの、高橋源一郎に対しては相変わらず容赦がない。金井の毒舌と書いたが、多くは真っ当な批判でもある。オリンピックとかサッカーワールドカップなどに浮かれているわれわれをあざ笑うかのように否定する。すると初めてわれわれは大政翼賛会状態だったんだと自覚させられる。
 さて、面白かった個所を引く。

……(毎日新聞の)「ブックウォッチング」欄の下には、扶桑社の、後期高齢者の男性が読者として想定されていると思われる書籍の広告が5冊ほど載っていて、著者の外山慈比古を「90歳の「知の巨人」」と宣伝している。この「知の巨人」という、どう見ても安っぽい感じのする言葉は、たしか、文藝春秋立花隆についての宣伝コピーとして使用し始めたのが最初だったような記憶があるのだが、むろん、この言葉の意味は、巨きな知を所有している人物というわけではなく、かつて、〈巨人、大鵬、玉子焼き〉と言われた文脈に近いニュアンスでの「巨人」と解すべきだろう。

 この「知の巨人」については最終回でももう一度話題にされる。

……先日亡くなった鶴見俊輔は「週刊朝日」の記事で「知の巨人」と呼ばれることになる。この何かのパロディというより、悪意さえ連想させてしまう言葉は、かれこれ20年も昔文藝春秋ジャーナリズムとでも呼ぶべきシステムが、立花隆に関する言葉として使いはじめたはずである。現在では、佐藤優池上彰に冠されることもあるし、「詩の巨人」と谷川俊太郎をテレビ番組では呼び、さらに空疎さは増すばかりで、むろんこの言葉は反知性主義の用語でもあるのだ。

 私もこの「知の巨人」という言葉には胡散臭いものを感じていた。それが立花隆の冠として使われていたからだが、立花隆に対して巨人は形容オーバーだと思うのがふつうだろう。佐藤優池上彰についても大同小異だ。彼らを小粒と評することはまさかないにしろ。その言葉を冠に使えるのはようやく南方熊楠とか加藤周一あたりではないか。
 また金井は、アーティスト森村泰昌資生堂のPR誌『花椿』に連載していた「美の毒な人々」第33回のオードリー・ヘップバーンと「ヘップサンダル」について書いた文章の間違いを指摘する。

……その前に南伸坊とは全く正反対の、アートっぽいウハゴト的文章も書く森村はむろん、誰かに扮するセルフポートレイト(南伸坊の『本人の人々』や『歴史上の本人』に比べて設備投資が高そうである)で知られた美術家だが、文章だけではなく、アン王女に扮した写真も決定的に間違っていることを指摘しておきたい。

 ここで森村が扮装した写真の誤りが指摘されているが、それは省略する。私も森村の作品のどこがアートなのか分からない。批評も何もない金だけかけたコスチュームプレイに過ぎないのではないか。防衛庁のバルコニーでの三島由紀夫の演説とか、ヒトラーの演説とか、山越え阿弥陀とか、何を言いたいのだろう。
 ついで日本映画評を。

 映画としてあまりにも愚鈍な出来と言っても、とりたてて過言ではない2作、『ふしぎな岬の物語』(吉永小百合企画主演、成島出監督、モントリオール世界映画祭審査員特別賞グランプリ&エキュメニカル審査員賞受賞)と、山田洋次の『小さいおうち』(2011年2月の第64回ベルリン国際映画祭で、「つつましい日本女性の立ち居振る舞いを演じた黒木華さんが最優秀女優賞に選ばれた」と広瀬記者)の受賞を目のあたりにしたジャーナリストが……(中略)
 日本映画が高く評価されたというモントリオールとベルリンの国際映画祭に他にどのような映画が出品されていたにせよ、それらと比較するまでもなく、この映画の、いわば観客を舐めきったとしか思えない低俗ぶりを評価しない者も多い、ということはともかくとして、今は、私たちがいかに健忘症的世界に属しているかを銘記しておくことにしよう。

 これで、金井美恵子の毒舌が読めなくなるのが何よりも残念だ。またどこぞの雑誌に連載を始めてくれたらいいのに。



新・目白雑録

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