多田蔵人 編『荷風追想』を読む

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  多田蔵人 編『荷風追想』(岩波文庫)を読む。59人もの作家や編集者、芝居関係者、その他交際のあった者たちが書いている。さすがにこんなに大勢が書いていると、文の巧拙が目についてしまう。やはり群を抜いて優れているのは幸田文だ。他の文章と全然違っている。

 荷風の妻だった八重次(藤蔭静枝)や愛人だった関根歌の文章が割りにしっかりしていて驚いたが、編者によると掲載した『婦人公論』の編集者によって構成されたものだという。

 室生犀星が書く。荷風は人嫌いと言われているが、

(……)用もないただの遊びの訪問くらい迷惑なものはないし、自分を益しない人を嫌うのは当り前である。それより浅草で裸の職業を持つ女連と、碌でもない駄じゃれに飽きることもなく、年中ぴかぴか光った裸を見ていたら、どれだけ生甲斐のある事だか判らない、そんな所に出入りするためにも人嫌いの吹聴が必要であり、そこまで突き進んでおれはおれの好きな物を見るんだと、少しの懸念もなく女連と遊びほうけていた姿は大した安楽なものであった。この世界は女の裸を見ているより外に、何も見る物がないと仕切っているところに人としての正直さがあった。

 

 石川淳は手厳しい。「敗荷落日」より

 一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。しかし、これがただの乞食坊主ではなくて、かくれもない詩文の家として、名あり財あり、はなはだ芸術的らしい錯覚の雲につつまれて来たところの、明治このかたの荷風散人の最期とすれば、その文学上の意味はどういうことになるか。

 おもえば、葛飾土産までの荷風散人だった。戦後はただこの一篇、さすがに風雅なお亡びず、高興もっともよろこぶべし。しかし、それ以後は……何といおう、どうもいけない。荷風の生活の実情については、わたしはうわさばなしのほかはなにも知らないが、その書くものはときに目にふれる。いや、そのまれに書くところの文章はわたしの目をそむけさせた。小説と称する愚劣な断片、座談速記なんぞにあらわれる無意味な饒舌、すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ。書くものがダメ。文章の家にとって、うごきのとれぬキメ手である。どうしてこうなのか。荷風さんほどのひとが、いかに老いたとはいえ、まだ八十歳にも手のとどかぬうちに、どうすればこうまで力おとろえたのか。わたしは年少のむかし好んで荷風文学を読んだおぼえがあるので、その晩年の衰退をののしるにしのびない。すくなくとも、詩人の死の直後にそのキズをとがめることはわたしの趣味ではない。それにも係らず、わたしの口ぶりはおのずから苛烈のほうにかたむく。というのは、晩年の荷風に於て、わたしの目を打つものは、肉体の衰弱ではなく、精神の脱落だからである。老荷風は曠野の哲人のように脈絡の無いことばを発したのではなかった。言行に脈絡があることはある。ただ、そのことがじつに小市民の痴愚であった。

(中略)

(……)今日なおわたしの目中にあるのは、かつての妾宅、日和下駄、下谷叢話、葛飾土産なんぞに於ける荷風散人の運動である。日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一灯をささげるゆかりも無い。

 

  対して中山義秀荷風を絶賛する。

 芥川龍之介も独特の文体で私達読者を酔わしたことがあったが、荷風の文章の妙味に及ばない。荷風はおそらく「雨月物語」を書いた、上田秋成以後の第一人者であろう。荷風の文章は纏綿とした情緒をおび、含蓄がふかく彼以外には物しえない妙趣をそなえている。荷風亡き跡もう彼ほどの文章に接しなくなった憾みをなげく者は、あながち私ばかりとはかぎるまい。文章の下手なやつのものは、読む気がしないという、三好達治の言葉は名言である。

 

 また、佐藤春夫も戦後の荷風を擁護する。「荷風文学の頂点」から、

 人は荷風の最晩年の短篇集『あづま橋』に収録された諸作を強弩の末と称して、それらの諸作の発表ごとに荷風ももう駄目だというような声が聞かれたものであった。荷風自身は勿論十分な自信を持っていたとは思うがこの集を発行した中央公論社でもこれを荷風に対する奉持のような気で出版したので決して荷風の作品集中の最優秀なものとは思っていなかったのではあるまいか。他は何と云い何と思おうとも、僕は月評家たちが強弩の末と云ったこれらの諸短篇を荷風文学の頂点だと思っている。

 

  さて、荷風を読み直してみようか。