野口冨士男『わが荷風』を読む


 野口冨士男『わが荷風』(岩波現代文庫)を読む。本書ははじめ集英社のPR誌『青春と読書』に1973年3月から2年間連載され、1975年集英社から単行本が発行された。その後、中公文庫に収められ、講談社文芸文庫の1冊となったが、2012年岩波現代文庫に収められた。講談社文芸文庫は売れなくても(発行部数が少なくても)重要な文学書を発行するという姿勢をとっている。岩波現代文庫はもう少しだけ学術寄りだ。この2つの文庫に加えられたということが、本書の性格を語っている。
 中公文庫版のあとがきで、野口は少年時代から荷風の愛読者であったと書き、本書も発表誌がPR誌だったから、正面切った荷風論や荷風伝を書くのではなく、荷風の作品の背景を実際に歩いて、また作品の世界へ戻っていくという方法を採ったと言っている。
 その言葉どおり、荷風が関係し作品の舞台に選んだ街をたどっていく。地味な内容ながらなかなか楽しく読むことができた。
 私は荷風の作品をほんの数編しか読んでいない。いままであまり面白いと思ったことはなく、そのためさらに読み進めたいとも思わなかった。さすがに『墨東綺譚』は読んでいるが、評者の多くが荷風は戦前までと言っている。戦後の荷風に対して否定的な意見が多数を占めているようだ。
 吉行淳之介が「ちょっと戦後の荷風について考えてみれば、戦後の荷風は文学活動を放棄した、と考えるのが妥当のようだ」と書いている言葉を野口も紹介している。
 野口自身も、

 したがって、戦後にも見るべき作品が絶無というわけではかならずしもない。が、げんみつにいえば『墨東綺譚』まで−−少し大目にみても戦時中の『踊子』あたりで荷風の文学的燃焼はほぼ尽きている。戦後の注目すべきものとしては、作品以外の『断腸亭日乗』と『葛飾土産』しかないといわれても、それは致し方のないことである。

 石川淳が『安吾のいる風景・敗荷落日』(講談社文芸文庫)で荷風について厳しく論じていた。それを引く。

 一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。しかし、これがただの乞食坊主ではなくて、かくれもない詩文の家として、名あり財あり、はなはだ芸術的らしい錯覚の雲につつまれて来たところの、明治このかたの荷風散人の最期とすれば、その文学上の意味はどういうことになるか。
 おもえば、葛飾土産までの荷風散人だった。戦後はただこの一篇、さすがに風雅なお亡びず、高興もっともよろこぶべし。しかし、それ以後は……何といおう、どうもいけない。荷風の生活の実情については、わたしはうわさばなしのほかはなにも知らないが、その書くものはときに目にふれる。いや、そのまれに書くところの文章はわたしの目をそむけさせた。小説と称する愚劣な断片、座談速記なんぞにあらわれる無意味な饒舌、すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ。書くものがダメ。文章の家にとって、うごきのとれぬキメ手である。どうしてこうなのか。荷風さんほどのひとが、いかに老いたとはいえ、まだ八十歳にも手のとどかぬうちに、どうすればこうまで力おとろえたのか。わたしは年少のむかし好んで荷風文学を読んだおぼえがあるので、その晩年の衰退をののしるにしのびない。すくなくとも、詩人の死の直後にそのキズをとがめることはわたしの趣味ではない。それにも係らず、わたしの口ぶりはおのずから苛烈のほうにかたむく。というのは、晩年の荷風に於て、わたしの目を打つものは、肉体の衰弱ではなく、精神の脱落だからである。老荷風は曠野の哲人のように脈絡の無いことばを発したのではなかった。言行に脈絡があることはある。ただ、そのことがじつに小市民の痴愚であった。
 (中略)
 むかし、荷風散人が妾宅に配置した孤独はまさにそこから運動をおこすべき性質のものであった。これを芸術家の孤独という。はるかに年をへて、とうに運動がおわったあとに、市川の僑居にのこった老人のひとりぐらしには、芸術的な意味はなにも無い。したがって、その最期にはなにも悲劇的な事件は無い。今日なおわたしの目中にあるのは、かつての妾宅、日和下駄、下谷叢話、葛飾土産なんぞに於ける荷風散人の運動である。日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一灯をささげるゆかりも無い。

 荷風はその日記『断腸亭日乗』に「。」印や「・」を付けていた。それは性行為を意味しているとされている。数えで70歳のとき年間76回、最後にその印が付けられたのが、死に2年先立つ79歳のときだった。