正宗白鳥『文壇五十年』を読む

 正宗白鳥『文壇五十年』(中公文庫)を読む。戦前、文壇の大御所だった白鳥が、戦後すぐの頃に、明治36年読売新聞社の記者となって以来の文壇50年を振り返って書いている。同時代を見てきた作家の証言は、なかなか驚くような出来事に満ちている。

 日清戦争後から日露戦争までに日本の文壇は、意気揚がらない趣きがあった。小説では『金色夜叉』と『不如帰』の時代であって、この2篇は、小説読者の興味をそそり広く流布したのであったが、峻厳な文学批判に堪えるような作品ではあるまい。いわゆる通俗臭が濃厚である。(中略)
 評論では、高山樗牛が群を抜いて目ざましく活躍していた。今から見て内容は大したものではなかったが、デタラメの造語沢山の漢文調が、青年読者の心に詩のように響いていた。

 田山花袋の『蒲団』が登場する。花袋とおぼしき中年の作家が、家に住まわせていた弟子の若い女性が去ったあと、彼女の体臭の残る布団を抱きしめて泣くという汚い小説だ。これが日本の私小説の幕開けになったという。そして白鳥は、島崎藤村森鴎外夏目漱石もこの影響を受けたという。
 国木田独歩について、その小説は青春の影はさしているが、その影は薄い。筆力乏しくして豊かに描き得なかったのだと書く。島崎藤村の「春」のなかの青年にも青春の気迫は観られない、と。高山樗牛の文章は空疎である。永井荷風は青春の享楽みたいなものはあるが、溌剌たる若さはない。ずいぶん手厳しい。
 死を宣告されて書かれた中江兆民の「一年有半」についても、「異常な売れ行きを示したのであったが内容は大したものではなかった」。「あんな風に淡々たる気持ちで書かれている兆民の覚悟でもその極致は疑われる」と容赦ない。
 さらに、「幸田露伴の作品も、私にはその晩年のは多少読み応えがするのであったが、紅葉と並んで新進作家としての華やかな生存を示していた頃のは殆ど面白くなかった。その作品に示されている理想は私の心に感銘されなかった。紅葉は技巧だけ、露伴には理想があると、早くから云われている。露伴の理想など何ほどの事かあらん、と私は早くから思っていたが、今回顧すると、なお更そう思われる」。
 鴎外、漱石、藤村などのような「勿体振った人々の理想、社会批判だって、有ふれた凡庸のものではなかったか。荷風の社会批判だってさしたる事ではなかった」と止まるところがない。何だか明治大正の文学は読む必要がないかのように思えてしまう。しかし、

 終戦後にこそ人生の理想も、社会批判も、いきいきと出て来たのではなかったか。文壇人でも、一時目が醒めて世界を見直すようになったのではなかったか。鴎外漱石藤村などのような、聡明人や、根気強い人生の探求者にも見出せなかった人生の真相が、敗戦後は、通り一ぺんの凡庸な文壇人にも見えるようになったのである。

 さて、人生の真相が見えるようになったという戦後の文学が世界に認められて、川端康成大江健三郎ノーベル文学賞を受賞した。これは白鳥に関係ないことだが、川端と大江の受賞が適切なものであったかと言えば異論をはさみたい。安部公房も取り沙汰されていたようだが、安部は論外だろう。やはり谷崎潤一郎三島由紀夫大岡昇平こそがその賞に価したのではなかったか。個人的に好きな作家はといえば、川端、大江、吉行淳之介らだが、まさか誰も吉行にノーベル文学賞とは思うまい。好きな作家と日本を代表する作家は別なのだ。


文壇五十年 (中公文庫)

文壇五十年 (中公文庫)