大岡昇平『現代小説作法』(ちくま学芸文庫)を読む。大岡昇平が、小説の書き方について、書き出し、ストオリー、プロット、主人公、描写等々のテーマを立てて書いている。その「文体について」という章がおもしろかった。
谷崎潤一郎の訳した『源氏物語』の一部を紫式部の原文と並べて挙げ、次のように書いている。
谷崎潤一郎の文章は、もともと美文系に属し、疵がないのが玉に疵といった種類のものですが、かんでふくめるような平明な文章から、説明と敬語を取ってしまうと、あとには源氏の簡潔な原文が残るということになっているのは皮肉です。源氏には文体があるが、谷崎源氏にはそれがないからです。邦文和訳というものは、うかつにやるものではありません。外国文学なら、横のものを縦にする作業に訳者の行動があり、翻訳と原文は元来別のものですが、古典の翻訳では、いくら親しみにくくても原文が日本語で、現にそこにあるという点が、まずいのです。
太宰治について、
太宰治も、大変わかりよい文章を書きました。谷崎と同じような美文意識で統一された文章ですが、作者自身はおよそ美文とは縁のない、破滅的な人間だったので、それが一寸類のない名文になっています。
(「女生徒」から引いた例文略)
作者の甘ったれ根性は、かな書き、短い句切り、それから全体の子供っぽい言い回しに、あらわれています。たしかにほかの人には書けない文章です。
ついで島崎藤村の「家」から2行ほど引用し、厳しく批判している。(例文略)
これも島崎藤村のほかには書けない文章ですが、これはいけません。これは引越しの光景を描いたにすぎませんが、「寝る家具」なんて日本語はありません。「蒲団」で沢山です。「物を食ふ道具」は今日なら「食器」ですが、藤村の時代なら「茶碗」です。これは単なる気取り、偽善です。一体藤村は売春婦のことを「白い顔をした女」なんて書く癖がありました。ここにも作者の個性が出ていますから「文体」ではないかという疑問が湧くかもしれませんが、こういうのは気取った「言い替え」にすぎず、文体ではありません。
鴎外の例で既に見たように、普通の言葉の独特な組合せが文体です。露骨な主張は滑稽になりますから、注意しなくてはいけません。
「劇的小説」の章で、これはエドウィン・ミュアが『小説の構造』(ダヴィッド社)で立てているジャンルだと言い、ミュアの立てた定義を紹介し、ミュアが劇的小説の見本としてジェーン・オースチンの『高慢と偏見』を挙げ、サッカレーの『虚栄の市』と比較していると言う。
『高慢と偏見』の、エリザベスが舞踏会ではじめて結婚の相手ダーシイに会う場面を引用して言う。(例文略)
一刷けにさっと描かれているだけですが、女主人公の性格も相手の男性の性格も、躍動しています。この初対面の場面を読むだけで、どうもこの二人はただにはすみそうもないぞ、という感じがします。
これと対照的なのが、「虚栄の市」の別の初対面の描写です。策動が行われて、それまで寄寓していた貴族の家から追い出されたベッキイ・シャープが、新しい雇主の家へ移る場面です。
(例文略)
一九世紀初頭のイギリスの貧乏貴族の風俗と雇人根性が活写されていますが、ミュアはこの場面の閉鎖性に注意します。人物は一目で理解出来ます。動作も類型的で、最初から「自己を一般化した形で示し、以後それを続けるより仕方のない人間」として、現れている。ところが、「高慢と偏見」のエリザベスとダーシイは、これからの行動で本性を明かしてくれるのを、われわれに期待させるように描かれている。類型的なものの繰り返しではなく、個別的なものへの分化という風に、小説は進むのです。これが劇的小説と性格小説の根本的な相違だ、とミュアは指摘しています。
同じような対照を、われわれは例えば尾崎紅葉と夏目漱石の小説の間に見出すことが出来るはずです。「金色夜叉」の根本的な欠陥は、お宮にも貫一にも性格に発展がないことで、それがあの小説の進行をぎこちないものにしている原因です。がんらい性格小説として、一時代の風俗の中に漂う人物群を列挙するに止めるべきであったテーマを、お宮貫一の間の性格のドラマにしようとしたところに無理があったので、それが結局「金色夜叉」を未完に終らせることになったようです。
これが大岡昇平の小説作法だ。日本近代小説の優れた作家を3人挙げるとすれば、谷崎潤一郎と大岡昇平、それに三島由紀夫ということになるのではないか。私の好みからすれば大江健三郎、川端康成、吉行淳之介ということになるが、代表的作家となれば最低限谷崎と大岡は動かないと思う。戦後派作家たちは生硬な印象を受けるし、吉行以外の第三の新人は少し評価を下げざるを得ない。女流作家では佐多稲子を高く評価するものだ。
- 作者: 大岡昇平
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2014/08/06
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