佐野洋子『問題があります』(筑摩書房)を読む。主に2000年代にあちこちの新聞雑誌に掲載した短いエッセイを集めたもの。本文250ページに50編近くが掲載されている。つまり1編が数ページと短いものばかりだ。ところがその短いエッセイが深いのだ。これにはたまげてしまう。
幼いとき終戦直後に中国の大連に住んでいた。そこでロシア兵を見た。
次に私が出会ったロシア人はアンナ・カレーニナだった。中学生だったと思う。
アンナ・カレーニナは大連を大声で酔っぱらっているロシア人とは何の関係もなかった。
中学生に『アンナ・カレーニナ』の何がわかったのだろう。今でもあの兵隊とアンナ・カレーニナやウロンスキイが、同じ国の人とは思えない。階級というものは、国籍の違いよりももっと大きい。
中学生のころ何を読んでいたか。
……私は何を読んでいたか、とにかく男と女がやらしそうなことをやっているところだけ目を皿にするのである。
そういう本にしか、やらしい情報はなかったのである。
『脂肪の塊』に目をくっつけて見ている私から、父は本をひったくり「こんな本読むな」といった。モーパッサンはやらしいということ位わかったのであろうか。次の日、父は図書館から世界文学全集の第1巻、ルソーの『告白録』というのを持ってきた。
私は読み始めて、たまげた。初めから、ルソーは、馬車の中で、妙齢の夫人をたらし込むのである。父は『告白録』など、読んでいなかったのである。
そういうわけで、私は中学生で頭の中はすっかりやらしく出来上がっていたのである。
(中略)
13歳の生意気な友達が、漱石は、『三四郎』『それから』『門』という順序で読むものよ、なんてほざいておったから、私は、お―そうか、そうかとその通りにしたが、漱石に深く心を打たれるにはそれ相応の人生というものが必要なのである。
全く時間の無駄であった。あんなんだったら、ぐれて男と遊んでいた方が、何ぼかよかった。
しゃれまくって、街をうろついていた方がどれ程楽しい青春であったろう。
年よりについて、
日本は平和で素晴らしい。
90歳のじいさんが冬山に死にものぐるいで登ったり、海の中にとび込んだり、鉄棒で大車輪をやったりする。
そして年齢に負けない、と大きな字が出て来る。
私はみにくいと思う。年齢に負けるとか勝つとかむかむかする。
こんなばかげて元気な年寄りがいるからフツーの年寄りが邪魔になるのだ。
実に若々しい女を知っている。60近いが、10歳は若く見える。中身はもっと若い。そのへんのネエちゃんと同じである。
「ねェ、六本木ヒルズ行った?」。行くわけがねェだろ。
その女は年齢相応の中身は外見と同じに無いのである。私は70になるが、それなりに人生を生きて来た。赤貧を洗ったし、離婚もした。回数は言わないが、くっつくのは何の苦労もいらないが離れるのは至難の業と、とんでもないエネルギーでぶっ倒れる。
朝起き出すのが嫌いなのだ。布団の中でぐずぐずしている。
私は今一人者である。そして老人である。私は5時半ごろ目覚め、テレビをつけて、そのままうとうとと9時頃まで眠ってしまう。目がさめると金正日の顔などがテレビに映っている。おしっこに行く、昔よりおしっこが長くなった。普通の人はここで着がえる。しかし私は又私の形にふくらんだふとんの中にもぐり込み、北朝鮮の兵隊の行進を見ながら、ぼんやりあらゆる事を考える。(中略)
毎日どんなテレビを見ていても、たとえ芸能人のくっついた離れたを見ていても、あれこれ勝手に思い続けて最後にどうして戦争は終わらないのか、というところまで行きつき、そこまで行くともう考える事がなくなる。
私には手におえん、そして、のそのそ着がえる。
そして寝巻の首のあたりの裏をなめる。しょっぱいと洗う。しかし毎日しょっぱい。
ついでに夕べのおふろのあと着がえた下着もなめる、しょっぱい。下着から着がえて洗濯ものをかかえて洗濯機を回すと11時半だったりする。
とにかくおかしい。同時に深い。佐野洋子の文章は上手いわけではない。思想=考え方がユニークなのだ。常識を突き抜けている。突き抜けたところに深い真実があることを教えてくれる。こんな数ページの短文なのに、いちいち感心させられる。半端な人ではないのだろう。
- 作者: 佐野洋子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2012/09/01
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (6件) を見る