四方田犬彦『テロルと映画』がとても良い

 四方田犬彦『テロルと映画』(中公新書)を読む。四方田は最初に、「テロリスムが人間に向かって何かを訴えるときには、つねに映像メディアを媒介とし、スペクタクルの形態をとる」という。そして、

スペクタクルとは、匿名の観客を前にして演じられる〈見世物〉であり、非日常的な突発事件が音と映像を介して表象される事態を意味している。テロリスムとは、現実的な破壊や殺人である以上に、その演劇的表象として世界中に恐るべき速度のもとに伝播されることで、目的を果たすのである。

 映画においてテロリスムを扱ったものがとても多い。ある種のテロリスムは社会が唾棄すべき悪の権化として、アクション映画に波乱万丈の物語を提供してきた。別のテロリスムは英雄的行為として賞賛され、当事者をめぐる神話的物語は、民族国家を始動させる原動力として、繰り返し映画化されることになった。
 『ダイ・ハード』は前者であり、テロリストは外部から当来する。『カルロス』や『パラダイス・ナウ』はテロリストの内面に立ち入って、彼らの行為を内側から理解しようとする。
 ルイス・ブニュエルは、晩年テロリスムを取り上げた映画を続けて撮っている。『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』、『自由の幻想』、『欲望のあいまいな対象』など。ブニュエルはテロリスムが世界を覆う深刻な病気で、それが日常化してしまっているとの悲観的な認識を示す。
 日本では若松孝二がテロリスムの映画を撮っている。1971年の『赤軍―P.F.L.P世界戦争宣言』や2007年の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』だ。その『実録・連合赤軍〜』について四方田は書く。

『性賊』の監督(若松)は、現実の新左翼集団が極限状態に追い詰められたとき、どのように悲惨な状況に見舞われるか、いかなる知識も伝聞もないままに、テロリストたちの内側に宿る不信と背信の構図を描ききっていた。また『天使の恍惚』の監督(若松)は、テロリスト組織が本来的に相互監視による恐怖の醸成によって成立しているという事実を、批判と絶望が相混じった気持ちのもとに指摘していたのだった。連合赤軍の惨事は、実のところ、若松が抱いていたテロリスム組織をめぐるヴィジョンを、その後になって踏襲し、よりグロテスクな形で反復していたのにすぎなかった。

 ドイツの監督ファスビンダーは『秋のドイツ』と『第三世代』でテロリスムを取り上げる。1970年代のドイツを恐怖に陥れるRAF(ドイツ赤軍)を結成するバーダーとマインホフを主題にしている。
 1978年にはイタリアの元首相アルド・モロが「赤い旅団」を名乗る政治的革命集団に誘拐され殺害された。マルコ・ベリッキオは『夜よ、こんにちは』でモロ事件を扱った。だが、ベリッキオは事件の正確な再現を試みてはいない。「ここで求められているのは、歴史を静的に固定された事実の集合としてみるのではなく、ありえたかもしれない無数の分岐点を秘めた、潜在的な力の束として捉えなおすことである。この試みの途上にあって、事実は想像的なるものにおいて補完され、はじめて事件の本質をわれわれの前に浮かび上がらせることになる」。
 最後に四方田は、映画がテロリスムの廃棄のためになしうることとは何だろうかと考えて、3つの可能性を提示する。

 一つは映像を事後性そのものの現われとして差し出すことである。二番目は、フィルムの内側で和解と寛容の物語を提示することで、観客のメロドラマ的な想像力に訴えることである。
 三番目は、テロリスムがスペクタクル性を求めてやまないシステムである以上、同じくスペクタクルを旨とする映画がそれを拒否し、まったく異なった方向、スペクタクルを回避し廃絶へと向かう方向を採択することである。

 このあと、それらについて詳しく語られているが、引用はここまでとしたい。
 きわめて興味深い読書だった。四方田の本は、ほとんどどれも面白く外れがない。一読をお勧めする。