ルイーズ・バレット『野性の知能』を読む

 ルイーズ・バレット/小松淳子・訳『野性の知能』(インターシフト)を読む。副題が「裸の脳から、身体・環境とのつながりへ」といい、これが内容を表している。きわめて興味深い内容だった。だが、同時に読みづらい本でもあった。それは内容が難しいためと言うよりは、著者の書き方の問題であり、また訳者の訳文の問題でもあるように思われた。おそらく関係代名詞で繋がれているだろう原著の長い構文をそのまま日本語に置き換えているのではないか。
 しかし、それらをガマンして読んでいるときわめて興味深い主張を知ることができる。ハエトリグモという小さな小さな虫が巧妙な狩をするが、その作戦に脳はほとんど関与していないという。また自動掃除ロボット「ルンバ」も高度な人工知能など搭載していない。読売新聞の書評で池谷裕二が本書を取り上げて紹介している(8月11日)。池谷がルンバに触れて言う。

 なぜルンバは「知的」なのでしょう。ルンバには私の部屋の間取りはプログラムされていません。シンプルな動作原理にしたがって動くのみですが、どんな形の部屋にも柔軟に対応します。ルンバの「知性」の所在は、実は、ルンバの中身ではなく、周辺の環境とルンバ自身の形にあります。
 私たちは動物や機械の知能の在処(ありか)を「内面」に求めがちです。知性や認知を擬人化して考えてしまうのは、現代風の心身二元論。ここが思考の落とし穴です。
 本書はこう主張します−−「知覚や知能は頭の中にあるのでもなければ、私たちの心に起こるわけでもない。環境との相互作用から創発する」。
 著者はこの論点を拡張し、記憶さえも、脳の外に貯蔵されていると強調します。

 本書の解説でも、真柴隆弘が書いている。

 興味深いのは、大きな脳のない動物やロボットでも、身体−環境に役割を「肩代わり(オフロード)」させることで、融通性を増していることだ。このことは、「記憶」は脳に貯蔵されていない、という驚くべき知見を導く。記憶は、身体−環境に分散しているというのだ。人間の潜在的な記憶も同様で、記憶が自己同一性(アイデンティティ)のベースであることを考えると、「自己(私)」そのものが分散されていることになる。だから、記憶は思い出す度に変化し、場所が記憶をよみがえらせもする。

 著者バレットは、それ故『マトリックス』の世界を否定する。本書第9章から、

 ホムンクルスが脳内に住み着いて内側を覗き込んでいるというお決まりの観点からすれば、「水槽の脳」の思考実験は実にまことしやかで、思わずうなずきたくなる。これは、摘出されて水槽の中で培養している脳でも、十分な入力情報がある限り、生身の身体で歩き回っている人間とまったく同じに世界を経験できるという考え方だ(私たちが目にしている世界のほとんどはどのみち脳が作り上げたものという考え方を捨てきれないでいるなら、その通りじゃないかと思うだろう)。中には、これは思考実験どころの話ではないと極言する者までいる。「私たちは皆、水槽の脳にほかならない。頭蓋骨が水槽で、"メッセージ"は神経系への影響を介して流入してくる」のだと言う。しかし、複雑かつ適切な適応行動の生起に身体自体がどれほど役立っているかを理解できていれば、そんな主張は根底から覆すことができる。私たちの世界経験の大部分が身体の物理的構造と環境との接し方に依存しているなら、水槽の脳の経験が生身の私たちの経験と同じであり得るはずはない。

 記憶が脳に貯蔵されてなく、身体−環境に分散されている、場所が記憶をよみがえらせる、という驚くべき主張は、実は私も経験したことだった。「場所」が忘れていた記憶を呼び起こした例を書いたことがある。

 上野の美術館へ行った時、秋葉原から山手線に乗り換えて上野駅で降りた。ホームから公園口の改札へエスカレーターを使って上った。エスカレーターに乗っている時不思議な幸福感に包まれた。いまどうしてここでこんな幸福感を感じるのか、そして分かった。
 その半年前、好きだった女性と初デートの待ち合わせ場所が上野駅の公園口改札だった。あの日のエスカレーターを上って行った時の高揚感、幸福感がよみがえったのだ。彼女とはその1回だけのデートで終わってしまったので、その時の感情は忘れていた。しかし場所が覚えていたのだ。正確には場所とセットで記憶していたのだ。公園口改札へ上るエスカレーターという場所が忘れていた記憶を呼び起こしたのだ。
 ちなみに、後日同じエスカレーターを上った時期待した感情は湧き上がってこなかった。
場所と記憶(2006年10月23日)

 ギャラリーへ入っていくと知っている女性がいて、お久しぶりですと挨拶した。元気そうねと返され、だが誰だったのか思い出せない。記憶を探るとギャラリーのオーナーだった人、もうそのギャラリーはない、そこまで分かったのにどこのギャラリーだったか思い出せない。それが1か月ばかり前のことだった。
 昨日京橋を歩いていて工事中のビルのところに通りかかった。入ったことのない高級フレンチのシェ・イノのあった場所。その時突然あの女性が誰だったか思い出した。シェ・イノの隣にあった小さなギャラリー「アートギャラリー京ばし」のオーナーだった人だ。場所が記憶をたぐり寄せたのだ。
場所が記憶する(2008年7月31日)

 場所が記憶することについて、私も何年も前から何度も経験していた。決して荒唐無稽な話ではないと言うことができる。では、われわれは脳の機能について過大評価をしていたのだろうか。身体や環境に知性という機能を分けあたえるのか。身体という「無意識」の思考をより重視すべきなのだろうか。常識的な脳の記憶との整合性をもっと知りたい。
 「水槽の中の脳」については、下記で触れたことがある。
スタニスワフ・レムと筒井俊隆の共通性(2013年7月12日)
「マトリックス」のオリジナルは?(2008年4月27日)
スタニスワフ・レム(2006年4月5日)


 本書は発行=インターシフト、発売=合同出版となっている。発行と発売が別会社なのは、発行元のインターシフトが取次会社(トーハンとか日版)に取引口座を持っていないからだろう。その場合、口座を持っている出版社(ここでは合同出版)に発売を依頼することになる。新興出版社が取次に口座を開設するのはなかなか大変らしい。


野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへ

野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへ