執筆という行為自体が考える行為

 ルイーズ・バレット/小松淳子・訳『野性の知能』(インターシフト)に執筆という行為について興味深いことが書かれている。

……言語は私たちにコミュニケーション能力を与えるものだし、私たちの脳の構造にもうまく適している。しかし、それだけでなく、私たちの脳が「生まれながら」には備えていない能力も付与してくれる。本来なら解けない難しい課題を、言語が脳の処理能力に適したフォーマットに書き直すのだ。人間は基本的にパターン認識者だとアンディ・クラークは言う(身体化され、埋め込まれた認知への生態学的アプローチについて考察したことを思い返せば、うなずけるはずだ)。このデフォルト・モードの「克服」を可能にするのが言語だ。言語無しではうまく構造化できないはずの問題に、別の形で取り組めるようになるからである。クラークはつまり、言語が「空間のトレード」を可能にすると言いたいのだ。どういう意味か? 私たちは言語を構成する身体外の記号体系を使って、文化的に獲得されたさまざまな表象をトレードし、脳の負担を軽減している。言語は情報伝達の道具であるだけではなく、私たちが本来の能力以上のことを達成できるように環境を変化させる手段でもあるのだ。たとえば、エッセイを綴る時も、最初に思考ありきで、それを書き留めるわけではない。執筆という行為自体が考える行為だ。なぜなら、執筆は、私たちが自分の思考を正確に順序づけ、自分の言わんとするところを伝えられるように、言語を使用する方法であるからだ。思考は執筆行為によって、執筆行為を介して産出される。執筆しなければ、私たちはこの類いの思考を持つことはできないと、クラークは言う。

 これは信原幸弘『考える脳・考えない脳』(講談社現代新書)と同じことを言っている。信原は脳は考えないと驚くようなことを言う。では何が考えるのか。きわめて大雑把に要約すると、考えるのは3つの場合だという。1.人と話すとき、2.紙に書くとき、3.自分自身と心の中で会話をするとき。
 それ以外の状況では脳は考えない。脳内で自動的に考えることはない。たしかに、ブログを書くときも、書こうとするテーマは決めているが、その細部はあらかじめできあがっているわけではなく、書きながらできていくという経験をほとんどいつもしている。書きながら考えている。人と話すことで考えがまとまるのもしばしばだ。暗算はどうか? 暗算するときも頭の中にソロバンや数字を描いている。脳内で自動的に計算ができているわけではない。
 では脳は何をしているのか? 脳はひたすらデータを溜め込んでいるという。私は20年以上にわたって毎年2,000軒以上の画廊を見てきた。脳内にたくさんの蓄積されたデータが入っている。新しい作家の個展を見たとき、無意識に脳内のデータを参照しつつ作家に話しかけ、話しながら作品の位置づけなどが出来上がっていった経験が何度もあった。
 この『考える脳・考えない脳』はもう10数年前に読んだきりなので、ほとんど憶えていないが、上述した部分は印象に残っていた。脳はデータを蓄積するだけで、他者に話したり、紙に書いたり、自己問答したりしたときに初めて考えるのだという驚くべき主張は忘れることができなかった。

野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへ

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考える脳・考えない脳―心と知識の哲学 (講談社現代新書)

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