講談社 編『東京オリンピック』を読む

 講談社 編『東京オリンピック』(講談社文芸文庫)を読む。金井美恵子が『新・目白雑録』で紹介していたから。副題が「文学者の見た世紀の祭典」、40人の作家や評論家が1964年の東京オリンピックについて、当時の新聞や雑誌に寄稿したものを集めたもの。構成は4つに分かれ、「開会式」「競技」「閉会式」「随想」となっている。一番多く寄稿しているのが三島由紀夫の11点、ついで6点が石原慎太郎菊村到、5点が小田実大江健三郎井上靖の3人。
 52年前の日本で初めてのオリンピック、ほとんどの人がオリンピック開催に肯定的で、高揚して書いている。ちょっとした大政翼賛会状態だ。特に金メダルを取った日本の女子バレーボール「東洋の魔女」、ウエートリフティングの三宅選手、マラソンアベベには敗れたが銅メダルを取った円谷選手などなど。また敗れた試合についても多くの作家たちがそれを嘆いている。
 井上友一郎が三宅について書いた文章の末尾。

 三宅は、金メダルを取るべくして、ゆう然として取った。この底力は驚嘆に値する。
 君が代の曲のひびくところ、わが日の丸はスクリーンの中央高く掲げられ、皇太子ご夫妻には何よりのプレゼントになったのである。

 柔道無差別級で、日本期待の神永がオランダのヘーシンクに敗れた。富田常雄は「柔道のことなど書きたくない」と書く。
 金メダルを取った日本の女子バレーボールチームについて三島由紀夫が書く。

 ――日本が勝ち、選手たちが抱き合って泣いているのを見たとき、私の胸にもこみ上げるものがあったが、これは生まれてはじめて、私がスポーツを見て流した涙である。

 水上勉もこの東洋の魔女たちについて書く。はじめてチームの娘さんたちを見て、感動をおぼえたという。誰もが貧弱なからだをしている。

……えらばれた人たちは、平凡な日本の女を代表していた。すると、彼女たちのあの魔力は、風貌や体躯から出たものではないのだった。
 精神のはずだった。私は、そのことに気づいて、はじめて涙が出てきた。美しい巨躯の金髪娘のまじる他国チームと比べてなんと貧弱であったことか。
 大松(監督)さん、ありがとう。あなたは日本の平凡な女性の偉大さを見せてくださった。貧弱なからだにつめこまれた精神の大きさも、日本の女の素顔の美しさも見せてくださった……。

 石原慎太郎の言。

 参加することに意味があるのは、開会式においてのみである。翌日から始まる勝負には勝たねばならぬ。償いを求めてではない。ただ敗れぬために勝たねばならぬ。

 小田実は終始冷静だった。

 私はメダルを一つもとらない国、とれそうもないし、とるつもりも(すくなくとも、今のところは)ない国に興味がある、そうした国こそ、クーベルタン氏とかがいった、もっとも意味があるのは勝つことではなくて参加することだ、うんぬんのことばがふさわしい国ではないか。そうした国がなければ、金メダル、国旗キチガイばかりがやって来ていたとしたら、これはまさに息がつまる。

 村松剛NHKのアナウンサーの英語の多用に疑問を投げかける。

 なおテレビのことになったので、ここでもうひとつテレビに文句をつけておく。ぼくはオリンピックに関しては、もっぱらNHKを見ているが、驚いたのは解説に用いられる外国語のおびただしさなのである。興奮がエクサイトで、フェンシングの誘いがインビテイション。アメリカ人の水泳の態度は「いかにもスポーツマンライクですね」と放送員は解説していた。
(中略)NHKの放送員は、日本人がぜんぶ英語を知っているという前提のもとに、しゃべっているのだろうか。それともこの機会に、人民に英語を教えてくれようという親切な心がけなのか。

 村松さん、今ではアウェイだのアゲインストだの、日本はもうすぐピジンイングリッシュが主要言語になりそうな勢いです。
 菊村到が書いている。

 ところで、やはりオリンピックは、やってみてよかったようだ。富士山に登るのと同じで、一度は、やってみるべきだろう。ただし二度やるのはバカだ。

 二度やるのはバカだそうだ。