『「現代文学」月報集』を読む

 講談社文芸文庫 編『「現代文学」月報集』(講談社文芸文庫)を読む。1970年代前半、日本の当時の現代作家の代表作を集めた講談社の全集39巻の月報をまとめている。58名の作家をそれぞれ知人友人編集者たちが紹介し、その他「戦後I」と「戦後II」に取り上げられた8名の作家については作家自身による収録作品に関するエッセイが載っている。都合66名という膨大なもの。ページ数も330ページに及んでいる。
 ところが、各作家の見出しページに1ページを当て、そのページは作家の名前しか印刷されていない。また作家ごとに奇数ページ起こしになっているので、前の作家が奇数ページで終わった場合は次の偶数ページを裏白としている。意地悪く、裏白と見出しのページを数えると52ページになる。見出しに1ページとることなく、また奇数起こしでなく単なる改ページ扱いにすれば、330ページは278ページで収まることになる。なぜこんな贅沢な一見無駄な構成にしたかと考えれば、本書の本体価格が1700円もすることによるだろう。52ページ減じても実は印刷製本代はさほど安くはならない。ならばページを稼いで束(つか=本の厚み)を厚くして、できるだけ高価格に見合った体裁をと考えたのだろう。なぜそんなに高価な価格をつけたかといえば、もちろん売れ行きがそれほどは望めないからだ。地味な企画で、増刷もおぼつかないかもしれない。そう考えれば、この価格で発行してくれたことを感謝すべきなのだろう。
 付け加えれば、出版界ではページ単価を気にする風潮がある。ページ単価とは、本の価格をページ数で割った金額で、その本が割安か割高かの指標にもなる数値だ。ページ数が多ければページ単価は割安に見えるだろう。
 さて、数十人の作家に関するエピソードが語られているのでそれなりに面白い。その中から、いくつか。まず独文学者の谷口茂が柏原兵三について語っている。

 彼(柏原兵三)の父は富山の農村の出身で、小学校を出て駅夫をしながら独学で中学校卒業資格を取り、金沢の第四高等学校へ入学した。地元の資産家から奨学金をもらつたが、ほとんど苦学同様で、町の食物屋で食事したこともなかつたといふ。そして上京して帝大に入学したとき、彼は勇をこしてそば屋の暖簾を潜り、「盛りそば」なるものを注文した。それは東京人の好むそばの最も代表的な種類であることを知つてゐたからだ。それを食べることは、彼にとつては東京人になるための神聖な儀式だつた。これを食べればもう東京人なのだ。さう思ふと彼はすつかり気が楽になり、勇気さへ湧いてきて、さつき暖簾を潜るのにあんなに不安に駆られたことが莫迦らしくなつた。だから彼は、そばと汁とが別々に分けて運ばれてきたのを見ても驚かなかつた。東京人は洒落たことをする。そばが延びないようにといふ工夫だな。そこで彼は悠揚迫らぬ態度で、そばつゆを盛りそばの上にざあつとかけてしまつた。つゆはたちまちテーブルからこぼれ落ち、彼のずぼんを濡らした。彼はそれまでかけそばしか食べたことがなかつたのである。

 これを読んで同じことをした親友ハムのことを思いだした。18歳のとき受験のため一緒に上京して、独りで昼食に盛りそばを食べたハムが同じ失敗をしてしまったと話してくれた。もし私が一人で初めて盛りそばを食べたら同じことをしたかもしれない。やはりかけそばしか食べたことがなかったからだ。もっとも私たちは昭和40年代初期の経験だけど、柏原兵三のお父さんの事件はおそらく明治末か大正初期のことだった。しかし私たちの育った喬木村は田舎で、喫茶店も信号機もまだなかった。信号機はその後、子供たちが都会に出て行ってまごつかないようにと教育のために小さな交差点に1機だけ設置されたが。
 ハムはまた一人でスナックへ入り、初めてジンをストレートで飲んで涙が出たと言っていた。その話が印象的で、1〜2年後私もジンのストレートを飲んで見た。強い酒であることは確かだが別に涙が出るほどではなかった。それはわが師山本弘の元で、しばしばウイスキーのストレートをチェイサーなしで飲まされていたためかもしれない。後に屋台を引いていたときも、ラーメンを注文してくれたバーなどに入って、ちょっと格好をつけてジンストダブルを注文していた。ジンのストレートをダブルでもらい、それを2杯飲んでまた屋台を引いて商売するとさすがに酔ったのだった。
 芥川比呂志中村真一郎について書いている中で、

 30年代の初めごろから、ラジオ・ドラマはテレビ・ドラマに席をゆずり、中村も(ラジオ・ドラマの脚本の執筆をやめて)小説や評論に専念するようになった。日本ほど、テレビ・ドラマの賑わっている国も珍しいが、日本ほど、テレビ・ドラマが文学と無縁のところで成り立っている国も珍しい。

 作家の赤坂早苗が庄野潤三について書く。小田急線の東生田駅から徒歩20分の庄野の新居を訪ね、映画の試写会に出かける庄野と一緒に駅へ向かう。庄野は駅への近道という駅の裏手の崖の上へ出て、その崖を駆け降りた。

「これは、息子たちに教えられた道です。」
 と、うしろも振りむかずにいった。
 草いきれのむんむんする草原を横切っていると、子供時代のことが思い出されてきた。
「こういう草っ原を見ると、子供の頃のわるさを思い出します。草と草を縛りつけた仕掛けをいくつも作っておいて、だれかが足をとられて転ぶのを面白がってよく見ていたものです。」
 うしろについて歩くぼくがいうと、
「ほほう。そんないたずらをしたのですか。」
 と、前を歩く庄野さんは、やはりうしろを振りむかずに大きな声でいった。

 私も少年のころ同じことをした。山の斜面のけもの道のようなところの草を結び付けて罠をつくり、誰かが足を取られて転ぶ仕掛けを作ったものだった。しかも転んだあたりに木の棒を挿しておいて、尻に刺さることまで計画した。ただ田舎の山にはほとんど人も来ず、たぶん被害に遭ったかわいそうな人は一人もいなかっただろう。
 数ある文庫本の中で、私が最も贔屓にするのはこの講談社文芸文庫なのだった。