山本弘は終戦時15歳だった。軍国少年だった山本が終戦をどう感じたのか正確には分からない。ここに勝目梓の『小説家』(講談社文庫)という自伝があり、勝目が終戦時の体験を語っている。
昭和20年(1945年)、日本の敗戦の年にこの世に生を受けたC女は、民主主義の理想を掲げた戦後教育の下に育っていた。加えてC女はポジティブな性格の持ち主であって、すべての物事を真っ直ぐに、真っ当に考えていく姿勢を身に着けていた。
一方の中年の彼は、13歳で日本国の無残な敗戦に遭遇していた。昨日までは絶対的で普遍のものとされていた権威や価値観のすべてが、一瞬のうちに見事に瓦解し、転倒した。それを見た13歳の少年は、この世界は紙細工でできあがっていたようなものだった、という思いを痛烈に実感した。その言いようのない困惑と衝撃が、少年の中に心理的ニヒリズムといったようなものをトラウマとして深く刻みつけた。それまで尊敬の念を抱いていた身近の何人かを含めた世の大人たちの、無残な自信の喪失ぶりや、食べる物をめぐっての人々の醜いほどの争いなどが、そのトラウマをさらに深いものにした。もちろん彼自身も、醜い食べ物の争いの中で飢えを凌いだ。
そうして気が付いてみると、彼はこの世のすべてのものに根深い懐疑心を堅く抱いた、きわめてネガティブな人間になっていた。彼はいつまでたっても、敗戦体験がもたらした精神的なエアポケットにころげ落ちたままで、そこから脱出することができず、抜け出るための道筋を見出すこともできなかった。この世界には信ずるに値するものは何ひとつないし、一人の人間の存在価値と一匹の虫のそれとは等価であって、違いなどどこにもないという考えは、遂に彼の根本的な信条のようなものとなり、70歳を越えた現在もなおまだどこかに尾を曳いている。
わが師山本弘もまた同様に考えたのだろう。軍国少年だった山本は戦後ヒロポン中毒に溺れ、やがてアルコール中毒に進み、そのアル中は死ぬまで続いたのだった。山本を特徴づけるニヒリズムは終戦の深い絶望から来ていた。彼の好きな言葉が、聖書の「空の空なるかな、すべて空なり」だった。軽井沢でバイトをしていた31歳の時、酔って壁にそう書いて泣き出したという。