小学校5・6年の時の担任の先生は宮嶋光男先生と言った。おそらく6年の夏休みに友人たちと先生の家に遊びに行った。もう50年も前になる。
先生の家に行っておどろいたことがあった。その家は私の隣家の御下(おした=屋号)の家と同じ構造だった。御下は村の旧家なのだ。先生の家も地主だったらしい。私の家は長野県の南部の喬木村にあった。先生の実家は長野県高森町にある。私の家から先生宅は8kmほど離れているのではないか。間に豊丘村という大きな村を挟んでいた。そんなに離れているのになぜ同じ構造の家が作られているのか。だいたい村では、村ごとに完結しているものなのだ。
どちらの家も南に向いて玄関があった。玄関を入ると大きな土間がある。土間に接して西側に座敷が2つ作られている。2つの座敷の向こう側にも同じような2つの座敷があった。いわば「田」の字のように4つの座敷があった。田の字の右側に土間があって、土間の突き当たりは台所と食事をする部屋だった。土間から座敷に上がるところに縁が作ってあった。そこまで共通していた。
なぜこんなに離れた地域に同じような家が作られているのか? 当時のその疑問は50年ぶりに解決した。藤森照信『フジモリ式建築入門』(ちくまプリマー新書)にこれらの家のことが紹介されていたのだ。
たとえば信州(長野県)独自の民家形式として名高い”本棟造(ほんむねづくり)”について考えてみよう。民家は”平入り”がふつうなのに、本棟造は”妻入り”のうえ、屋根の勾配がゆるく、それゆえ妻が広く大きく、民家とは思えぬほど堂々と構えている。原型は、建築としては一番簡単な切妻屋根の建物で、ゆるい勾配は白樺の樹皮や柿(こけら)で葺かれ、石で押さえていた。どこにでもあるこの原型は、ふつう平入りで使われ、農家や町屋として充実して行くのに、なぜ信州の、それも中・南部にかぎり妻入りで、威風堂々たる形式に進化したのか。信州の中・南部は冬の酷寒と強風を気候風土の特徴とするが、妻壁が風を大きく受ける本棟造は寒風には向かない。山国で柿(こけら)や白樺の皮が得やすかったとか、養蚕のため広い屋根裏が要(もと)められた、とかの説もある。民家の研究者も郷土史家も、これまで合理的な説明が出来ないでいるが、気候風土や技術や材料や用途から合理的に説明しようというのがそもそも間違いで、正解はとるにたらないところに隠れているのではないか。
そうだった。御下も先生の家も妻入りだった。フジモリの写真の家によく似ている。屋根の勾配が緩やかで大きく堂々としているのだ。それは南信(長野県南部)の民家の特徴だったのか。
- 作者: 藤森照信
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/09/07
- メディア: 新書
- 購入: 2人 クリック: 3回
- この商品を含むブログ (8件) を見る