藤森照信『タンポポの綿毛』を読んで

 藤森照信タンポポの綿毛』(朝日新聞社)を読む。建築家・建築探偵・路上観察学会会員・東大教授の藤森は昭和21年、長野県諏訪郡宮川村(現在の茅野市)で生まれた。本書は藤森(テルボと呼ばれていた)の保育園から小学生〜中学生時代の村での暮らしを描いている。
 戦後の田舎の村には何もなかった。牛乳はなくたまに山羊の乳を飲んだ。ニワトリを飼っていて、正月とか特別の日にはつぶして食べた。つぶすのは父親だったが、テルボものちに2羽つぶした。ヘビもサンショウウオも食べた。トンボよりチョウの方がおいしいと思った。トンボは食べるところはないように見えるが、羽の付け根にはちゃんと筋肉があり、引き抜いて何度か食べた。チョウはリンプンを処理するために両手の掌のあいだでモミモミしてフッと吹くと、黒い体だけがコロリと残る。チョウは花の蜜を吸っているからまずくはない。
 ハチの子はおいしかった。「少年が苦心して捕ったのはスガリという地中に巣をつくる地バチで」とある。これは黒スズメバチのことで、私が育った長野県南部の飯田地方ではそれを「スガラ」と呼んだ。後日、古文の教科書に「すがる乙女」という言葉が出てきて、注に「蜂のように腰がくびれた娘」とあり、蜂のことを古語でスガルと言ったのを知った。すると「スガリ」も「スガラ」もそれが訛ったものだろう。
 サンショウウオを食べた話は傑作で、本書の元になった朝日新聞の連載(1997年5月4日)を以前このブログに紹介したことがある。なにしろ生きたままのサンショウウオを丸飲みするのだ。
サンショウウオを食べる(2007年2月20日
 村の立つ扇状地の上の方に、集落を見晴らすようにジンチョウサマの屋敷がある。諏訪大社の筆頭神官の家柄で、正式には神長官守矢家という。藤森は後日、守矢家の末裔である幼馴染みに乞われて、神長官守矢資料館を設計している。また中沢新一も、『ちくま』2008年6月号にエッセイ「折口信夫天竜川」を書き、守矢山について紹介している。

 守屋山は、諏訪湖の東岸に勢力をはっていた、「モリヤ」という古代部族が聖なる山としてあがめていた山だった。モリヤはおそらくこのあたりに高度な発達をとげた縄文文化の担い手だった人々、または彼らの首長だった家系の名前であろう。ところが古墳時代の末期に、このモリヤの地に、天竜川を遡って、ヤマトでの政争に敗れたイズモ族の一部が侵入してきた。
 モリヤたちはこの侵入者を食い止めようと全力を尽くしたが及ばず、ついに諏訪の地はイズモの支配するところとなった。しかし、イズモは政治の支配者となることはできたが、この土地に暮らす縄文の伝統を保ち続けていた人々の心まで支配することはできなかった。この地に諏訪神社を中心とする巨大な信仰圏が形成されるようになっても、その精神的な「奥の院」を握るのは、政治的に敗北したはずのモリヤの系譜につながる人々であり、そのために諏訪の信仰そのものが、中央に発達した神道とはおよそ体質の異なる「縄文的神道」としての野生を保ち続けることになった。イズモとモリヤはともに敗北したもの同士として共生しながら、この地に独特な諏訪信仰を発達させたのだった。(後略)

 このあたりのことはミジャクジ信仰に関することなので改めて書いてみたい。
 あとがきで藤森が書いている。

 生まれ育ったのは信州の片田舎の村で、中学生のころまでは、知識や教育はともかく、日々の暮らしは江戸時代の延長のようなもんだったといまにして思う。こと住宅に関していうと、江戸時代と明らかにちがっていたのは、明かりが灯火ではなくて電灯、井戸にかわって水道、障子の真ん中にガラスがはまっていたくらいだ。

 私は藤森より2個下。諏訪湖から流れ下る天竜川の中流域の村で育っていた。井戸が水道に変わったのは小学校低学年のころだった。サンショウウオもチョウもトンボも食べなかったが、ハチの子やイナゴ、カイコの蛹、カミキリムシの幼虫はたべていた。
 南伸坊の描く藤森の似顔は多分テルボの顔によく似ていて、微笑ましい。藤森の顔は今年亡くなった画家辰野登恵子にちょっと似ていて、典型的な諏訪地方の顔なのだ。


タンポポの綿毛

タンポポの綿毛