藤森照信が語る諏訪の古代史

 藤森照信が『タンポポの綿毛』(朝日新聞社)で諏訪の古代史について語っている。「敗戦の記憶」という章で。
 藤森が生まれ育った長野県諏訪郡宮川村(現茅野市)高部に守矢家の屋敷があった。

 村の立つ扇状地のやや上のほうに、集落を見晴らすようにしてジンチョウサマの屋敷がある。諏訪大社の筆頭神官の家柄で、正式には神長官(じんちょうかん)守矢家といい、高部の村はこの家を中心にずっと昔から営まれ、戦後になって事情は急変したけれど、格別な家であることは変わらない。
 守也家の御先祖さまは、南アルプス北端の標高1650メートルの守屋山を聖なる山としてあがめ、山に宿るミシャグジさまを神として祀り、その麓の扇状地に住み、諏訪湖の周囲に広がる諏訪の盆地を拠点に周囲一円を広く治めていた。人々は、モリヤの当主を生き神さまとしてあがめ、鹿や猪を追い、魚を捕り、草の根を起こし、木の実を拾って暮らしていた。きっと平和に。
 ところが、あるとき、守矢が治める中部山岳地帯に強力な軍勢が侵入してきた。
古事記』や『先代旧事本紀』につぎのように書いてある。
 大国主命の息子の建御名方命(たけみなかたのみこと)が、(父の国譲りに反対して)出雲を追われ、諏訪に入って諏訪神社の神となり、以後ここから出ないと誓って許された、と。
 入って神となるほうは1行そう書けばすむが、入られる側はたいへんだ。すでに立派な神さまもいるわけで、迎え撃たなければならない。
 守矢の御先祖は、人々を率い、聖なる湖の諏訪湖から流れ出る聖なる川、天竜川の左岸、現在守矢社のあるところに陣取り、糸魚川から松本を経て進攻してきた出雲勢は右岸の現在藤島社のある地点にまで進み、川をはさんで対峙し、ついに決戦。まずは呪術合戦で、守矢は"サナギ鈴(鉄鐸)"を棒の先に掲げて鳴らし、建御名方は"藤蔓の輪"をかざしてあらんかぎりの呪術をかけ合うが、勝負はつかない。その日の夜、建御名方の藤蔓はスルスルと延びて吊り橋となり、そこを渡っての夜襲を受け、地元軍は敗れる。
 敗れた守矢はしかたなく、神の座を建御名方に譲る。以後、建御名方の子孫は諏訪氏を名乗り、大祝(おおほうり)という"職名"の生き神となり、守矢は神長官という神官になる。現在、建御名方を祀る諏訪大社の神体山が守屋山であるのはこういう事情による。

 さて、この守屋山に関して中沢新一も書いている。筑摩書房のPR誌『ちくま』2008年6月号に掲載された「折口信夫天竜川」から、

 奥三河鳳来寺山あたりからはじまって、天竜川の両脇に広がる山塊がつぎつぎに紹介されて、そこから東にそれて静岡との県境地帯の山々に向かい、そのあたりを歩ききると、こんどは天竜川の流れを伊那谷に沿ってずんずん遡行して、ついに諏訪湖にいたる。私に驚きであったのは、この山歩きにひとつの意味をあたえる存在としての重要性をあたえられていたのが、諏訪湖のほとりの守屋山であると書かれていたことであった。
 その本によると、東海地方に住む山好きたちにとって、守屋山は昔からなにやら知れぬ奥深い意味を持っていたらしいのである。守屋山は数百メートルの高さしかない低山である。山容もとりたてて目立った特徴を持たない。ただ山頂からの眺めはすばらしい。眼下に諏訪湖の全貌が広がり、そのまわりを蓼科の山々が取り囲み、向こうには雄大八ヶ岳がそびえている。では、頂上からの眺望がすばらしいから、このガイドブックは守屋山を山歩きの源流の位置に据えたのかというと、どうもそうではないらしい。天竜下流域に住む人々にとって、昔から守屋山はなにか特別な意味を持った山であったらしいということを、その本の著者たちは言外に匂わせようとしているように、私には感じられた。
 守屋山は、諏訪湖の東岸に勢力をはっていた、「モリヤ」という古代部族が聖なる山としてあがめていた山だった。モリヤはおそらくこのあたりに高度な発達をとげた縄文文化の担い手だった人々、または彼らの首長だった家系の名前であろう。ところが古墳時代の末期に、このモリヤの地に、天竜川を遡って、ヤマトでの政争に敗れたイズモ族の一部が侵入してきた。
 モリヤたちはこの侵入者を食い止めようと全力を尽くしたが及ばず、ついに諏訪の地はイズモの支配するところとなった。しかし、イズモは政治の支配者となることはできたが、この土地に暮らす縄文の伝統を保ち続けていた人々の心まで支配することはできなかった。この地に諏訪神社を中心とする巨大な信仰圏が形成されるようになっても、その精神的な「奥の院」を握るのは、政治的に敗北したはずのモリヤの系譜につながる人々であり、そのために諏訪の信仰そのものが、中央に発達した神道とはおよそ体質の異なる「縄文的神道」としての野生を保ち続けることになった。イズモとモリヤはともに敗北したもの同士として共生しながら、この地に独特な諏訪信仰を発達させたのだった。(後略)

 中沢は「古墳時代の末期に、このモリヤの地に、天竜川を遡って、ヤマトでの政争に敗れたイズモ族の一部が侵入してきた」と書いているが、出雲勢が天竜川から諏訪に攻め上ってきたというその根拠は何だろう。藤森も書くように新潟から信濃川千曲川を経て諏訪にやって来たのだろう。
 なぜ出雲が諏訪にやってきたのか。出雲神話で出雲は国引きで越の国を引いてきたと言っている。そのことの意味は、出雲が越の国を征服して配下に置いたということだろう。そして、今井野菊『神々の里ー古代諏訪物語』(国書刊行会)にその理由が書かれている。
 今井野菊によれば諏訪に伝わる古い伝説に石への信仰がある。ご神体を「みじゃくじ」と呼び、石神井(しゃくじい)もその系譜だと言う。尖った石がご神体で、諏訪地方が信仰の中心だが、遠く関東の東京都練馬区石神井まで影響があった。ところが越(こし)の神様と戦争して破れたと言う。ただ政権は奪われたものの神社は存続し信仰は継続したようだ。
 ここからは私の想像だが、越の国がまず諏訪を破って配下に置き、その越を出雲が破ったのではないだろうか。すると諏訪は出雲の支配下に移る。天照大神から国譲りを迫られた建御名方が、遠い諏訪まで逃げてきたのはそこが配下の地であったからではなかったか。


タンポポの綿毛

タンポポの綿毛