吉田秀和の「之を楽しむ者に如かず」(新潮社)を楽しみながら少しずつ読んでいる。そこに次のような一節があった。
昔、小林秀雄が『モーツァルト』を書いたとき、それを読んだ多くの日本人は強い衝撃を受けた。もちろん、あそこには、音楽学的検証にかかったら、批判に耐えられないようなところが少なくなかった。それより何より、論述の仕方が、小林流の飛躍の多い、人によってはコケオドカシと呼びたくなるようなものだと、非難する声は、当時からあった。
でも−−
あれは、日本人のモーツァルトのきき方に一つの新しい強烈な一条の光を投げる力を持っていた。
「走る悲しみ」というのは、なるほど、小林秀雄がアンリ・ゲオンの本からとって来て、一言のことわりもなしに使った言葉だ。おまけにゲオンはあれをフルート四重奏曲の一つの楽章について使ったのに、彼はこの一言でもってモーツァルトのト短調弦楽五重奏や交響曲の二曲の中を貫き走ってゆくものを言い当てた。そうして、この一言は、その後多くの日本人のモーツァルトをきく耳を呪縛するのに成功した。
それまでの「日本人のモーツァルト」は、せいぜいブルーノ・ワルターの、あのおじいさんが優しく愛情をもって孫を抱き上げるような扱い方が規範だった。そうでなければ、モーツァルトはただ「優雅で明澄で流麗玉の如き」音楽のお手本のようなものだった。彼のピアノ・ソナタは真珠の玉のような音で綴られていた。
そこに「走る悲しみ」である。
私も衝撃を受けた。論理より爆弾。
そんなことがいつまでも続くはずはない。
だが、そのあと、私たちは何を持ったか。そう、海老沢敏さんが『アマデウス』のモーツァルトを正面から真面目に受けとめつつ、何とか日本人の「モーツァルト像」をまともで学問的検証の軌道にのせられるようにするための真剣な努力をした。
ただ、それで日本人の間にどういうモーツァルトをきく耳が育ったかは別問題だ。
あ、それから井上太郎さんがいる。この人は愛情あふれる、繊細な心と耳を持ったモーツァルティアンで、レクイエムについてのモノグラフィーをものした。
石井宏? そう、私の知る限り、彼はモーツァルトの交響曲を、ベートーヴェンやブラームスの交響曲をきく耳で受けとることへの警戒の鐘をくりかえし鳴らしていた。
それから、さきに触れた岡田暁生。彼のモーツァルトを論じる鋭意の文章が日本人のモーツァルトのきき方にどんな変革をもたらすかは、私のこれからの楽しみの一つである。
よく読めば婉曲にではあるが、吉田秀和が小林秀雄を批判しているのが読みとれるだろう。以前丸谷才一が『袖のボタン』で吉田秀和を讃えて小林秀雄を強く批判していたのに、遠くで呼応しているのではないだろうか。
・丸谷才一による吉田秀和と小林秀雄(2006年10月2日)
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