本の装丁展を見る

 知人のM田さんに誘われて千代田区神田錦町にあるギャラリーKaNDaDaへ高麗隆彦・桂川潤の装丁展を見に行く。桂川潤がM田さんの知人である画家の桂川寛の息子に当たるという関係だ。桂川寛さんの個展はアートギャラリー環で何度か見たし、5年前に発行された自伝「廃墟の前衛ーー回想の戦後美術」(一葉社)も読んでいる。その出版記念シンポジウムにも行ったが、本郷三丁目にある古いビルで壁に北朝鮮のポスターが貼られているディープな左翼の事務所だった。
 さて、ギャラリーの壁面に高麗隆彦と桂川潤の装丁した本が2列にぐるりと展示されている。上段が高麗、下段が桂川の装丁した本=作品だ。2人とも一流の出版社の本を手がけている。装丁も優れたものだと思う。仕事も早いのだという。
 初日オープニング・パーティーの日で、ギャラリーが客で埋まっていた。入れない客が大勢外で待っているような状況だった。早めに行ったので少しは装丁も見られたが、ちょっとした違和感を持った。装丁はこのようなギャラリーでの展示にそぐわないのだ。元来装丁はそれを展示して見るものではないし、デザイナーもそのようには作っていない。手にとって表紙を開いたり閉じたりして見るものだ。書店で目立つようにという要請はあるものの、それは展示を要求するものではない。それが絵画作品と大きく違うところなのだ。ギャラリーに展示された本を装丁という角度から見るということの無理があった。
 同じことがポスターなどの展示でも言えるだろう。凸版印刷が経営する銀座のggg(ギンザ・グラフィック・ギャラリー ginza graphic gallery)やリクルートが経営するガーディアン・ガーデンでグラフィック・デザイナーの個展やポスター展などがある。ポスターは新製品や観光地、催事等々を訴求するためのものだ。見るものの視線をポスターを通して新製品や催事に誘うツールなのだ。ところがポスター展では、そのポスターの指すところへ行ってはいけない、ポスターの表面に留まらなければならないのだ。絵画とポスターと形式が似ているように見えるため同じように陳列された時、違和感を憶えざるを得ないのだ。ポスターとその指示するものはシニフィエシニフィアンの関係に似ているのではないか。
 ぐだぐだ書いたが、装丁された本を美術作品を並べるように展示したことについてちょっと違和感を持ったのでその理由を考えてみたのだった。
 ちなみにこのKaNDaDaは美術家の中村政人が中心になって主催している空間で、前衛的な美術展を企画公開している。中村の挨拶によれば神田のダダという意味でこの名を付けたという。ダダと言われるとパウル・ツェランの難解で魅力的な詩「死のフーガ」を思い出す。