場所が考える

 ベランダの片隅にアザレアの鉢植えがある。娘が幼稚園の卒園記念でもらってきたものなので、もう樹齢20年以上になる。毎朝それに水やりをするのだが、少しかがんで水をやるとき、なぜか不忍池ゴイサギを思い出す。
 もう10年近く前になるが、上野の不忍池ゴイサギが住みついていた。そのゴイサギの親子が釣りをするのだ。私が見たのは子である褐色の若鳥の方だった。親子で縄張りがあるらしく、若鳥は池の南西にある取水口の前に陣取っていた。われわれ見物人から2メートルくらいの近さだ。池の中の杭に立って小さな魚を狙っている。水に浮かんだゴミみたいなものを小魚がつつきに水面に上がってくる。ゴイサギはそれを狙ってひょいと獲っている。しかしゴミみたいなのがいつも都合良く流れてくるわけではない。これがすごいことなんだけど、ゴイサギは小さな木ぎれやフィルター付きタバコの吸い殻なんかをくわえて、取水口からの流れの上流にそれを落とす。木ぎれはゴイサギの脇を下流へ流れていく。それを小魚がつつきに水面に上がってくるときすかさず獲ってしまう。小魚が来ないとまた木ぎれや吸い殻を上流に落とし直す。これはゴイサギによる釣りだった。
 それより以前熊本市江津湖でシラサギによる同様の事例が報告されていたというが、ゴイサギでは初めてだろうと鳥の専門家が言っていた。
 最初に戻るが、ベランダのアザレアに水やりをするとき、なぜかこのエピソードを思い出すのだ。場所が記憶する、と以前も書いたことがある。
「場所が記憶する」(2008年7月31日)
「場所と記憶」(2006年10月23日)