だいぶ前の話だが、ヤマハのオートバイSR400が売れていた。古いタイプのオートバイでエンジンの数も1個だけの単気筒、4サイクル、排気量400ccという仕様。エンジンのマウントも直立に近い古い設計だ。今はもちろんエンジンが4つのいわゆるマルチが全盛、デザインもレーサーっぽいのが好まれる。そんな中にあってなぜかこの古いタイプのヤマハのオートバイが人気があったのだ。馬力は小さいのでスピードはあまり出ないが、ハーレーダビッドソン同様単気筒特有のバッ、バッ、バッという低いエンジン音がたまらないし、低速トルクが強いので信号待ちからのダッシュは最新型のレーサータイプのオートバイに負けなかった。
それを見ていたホンダがライバル車を開発した。ホンダGB400はまさにヤマハSR400に対抗して市場に出してきたものだ。雑誌や店頭でそのオートバイを見て、ホンダは何を考えているんだとそのセンスを疑った。ヨーロッパホンダもこのデザインに反対して、ヨーロッパでは別のデザインを採用したという。新しい設計なのに一見古そうなデザイン、単気筒、4サイクル、しかしこれは売れないと思った。私の見込みは当たったが、誰が見ても当たっただろう。問題はなぜ天下のホンダの開発陣が間違えてしまったかだ。
ヤマハSR400は古い型が生き残って、それが人気があったのだ。ホンダは新しく開発したのにヤマハに引っ張られて古めかしさにこだわってしまったのだろう。
新しいブランドを立ちあげる場合メーカーは大きな投資をすることになるので、十分な市場調査は欠かせない。当然ホンダは徹底した調査をしただろう。それなのになぜ失敗したのか。おそらく市場調査は言葉でするのではないか。古いデザインのバイクは好きかとか、ヤマハSR400と似たデザインのオートバイに関心はあるかとか、単気筒は好ましいかとか。それらは言葉なので、個々の消費者がその言葉からどんなイメージを念頭においているかを判断するのが難しい。完成品に近いダミーを提示して好きか嫌いかと問えば間違えることは少ないだろうが、そこまでやったら予算も馬鹿にならない。
これは市場調査の限界なのだろう。フランスの亡くなった哲学者リュシアン・ゴルドマンの「全体性の社会学のために」(晶文社)に「コミュニケーションにたいする可能意識の概念の重要性」という論文が収録されている。ここでゴルドマンは現実意識と可能意識という2つの概念を提示し、集団の現状の意識=現実意識に対して、可能意識とは環境等の変化によってその集団が変化しうる意識とした。ドイツ・マルクス主義文献における慣用語「計算された意識」(Zugerechnetes Bewusstsein)を「可能意識」(conscience possible)とフランス語に訳したのだという。
このような社会学(あらゆる現代の社会学)は、その記述の方法、その調査の方法をとおしてただたんに、人々が現実に考えていることにしか関心をもたない。ところが現在において用いられている方法よりも、ずっとはるかにはるかに完全なものと考えられるいくつかの方法を用いた、可能なかぎり正確な調査が1917年1月のロシア農民に関して行われていたならば、かれらの大多数はツァーにたいして忠実であり、ロシアにおける君主制の転覆の可能性さえ考えてもみなかったことをおそらく確認していたであろうーーその年の終りには農民の現実意識はこの点について根本的に変った。
したがって問題は、ある集団がなにを考えているかを知ることではなくて、集団の本質的な性格に修正を加えることなしに、その意識のなかに生じうる変化がいかなるものであるかを知ることである。
市場調査という方法が現実意識の調査であり、その方法からは社会や環境、状況が変化した場合の新しい意識=可能意識は知り得ないだろう。
オートバイのデザインの好みが可能意識から明らかになるという話ではなくて、市場調査という方法の限界を指摘したものだ。市場調査は現実意識の調査方法であり、その方法から明らかになるのは静的な動かない社会の様相なのだ。
娘が言う「父さん、えっらそうだね」
- 作者: リュシアン・ゴルドマン,山路昭
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