成田龍一『近現代日本史と歴史学』を読む

 成田龍一『近現代日本史と歴史学』(中公新書)を読む。副題が「書き替えられてきた過去」とあり、近現代の日本史がどのように解釈されてきたかを、膨大な文献を読み解いて紹介している。
 成田は、敗戦後再出発した歴史学研究は初め「社会経済史」をベースにしていた、そして1960年頃からは「民衆」の観点を強調するようになった、さらに1980年頃に「社会史」が強く提唱されるようになったと見る。この3つの見方が重なり合い地層のように集積されていると説く。そのことを主として高校の日本史教科書に準拠しながら、具体的に説いていく。
 本書では近現代日本史を9つの大きなテーマに分け、それぞれのテーマについて3つの見方がどう解釈しているかていねいに書いている。9つのテーマは、「明治維新・開国」「明治維新・倒幕」「明治維新・維新政権」「自由民権運動の時代」「大日本帝国論」「日清・日露戦争の時代」「大正デモクラシー期」「アジア・太平洋戦争の時代」「戦後社会論」となっている。
 参考文献の数は400篇を超えている。それらを実に丁寧に読み込んで分類している。だが成田はそれら参照した文献に主観的な評価を加えない。実にニュートラルに取り上げている。読んでいて歯がゆくなるほどだ。ひたすら淡々と論文を列挙していく。現代音楽の作曲家モートン・フェルドマンの抑揚なく延々と80分以上もピアニシモが続くピアノ曲を思い出したほどだ。もちろんそれは成田が極めて禁欲的に自分の評価を抑えているためなのだが。フェルドマンのピアノ曲同様に付き合い続けるのが少し辛くなったのも事実だ。
 ところが「第8章 アジア・太平洋戦争の時代」、「第9章 戦後社会論」あたりで俄然面白くなる。叙述の方法が変わったわけではなく、歴史自体の面白さが大きいのかもしれない。
 興味深い一節を引用する。第9章から、

 近年の通史では、必ずしも総力戦論の立場に立たない論者も、1945年8月で切断しないことが歴史意識として定着してきています。1931年から51年までを一つの区切りとして描く通史が増え、戦争体制と占領期を合わせ、一つの時代とする認識が出されます。
 同時に、敗戦の日とされる8月15日にもメスが入ります。佐藤卓己八月十五日の神話』(2005年)はそのことを検討しています。佐藤は、ポツダム宣言の受諾の通告は8月14日であり、米戦艦ミズーリ号上での降伏文書への調印は9月2日であることに注意を促し、終戦が外交事項であるならば、このどちらかの日として認識されるべきと言います。8月15日の玉音放送は自国の臣民に向けたものにすぎず、内向きなものとするのです。
 言い換えれば、8月15日を終戦記念日とするのは、「国内の政治的都合」でつくられたものだとし、佐藤はその創出過程を探っていきます。佐藤は当時の報道をはじめ、文学作品、世論調査、教科書の記述、ジャーナリズムの報道、国会での議論、あるいは靖国神社例大祭まで広く検討し、天皇の決断で日本民族が破滅を回避し、軍閥支配からも解放されたという作為を見出します。そして、1955年の「終戦10周年」イベントから、8月15日にスポットを当てる「8月15日ジャーナリズム」が定着したことをつきとめました。(これに続く部分もチョー面白いが後略)

 読後感はすばらしい本を読んだというものだった。まさに近現代日本史論の鳥瞰図がここにあるという感じだ。
 先に読んだ成田龍一加藤周一を記憶する』(講談社現代新書)ともども、良い仕事をしている歴史家だ。他の本も読んでみたい。