司馬遼太郎の「街道をゆく」が出典なのだけれどこのシリーズは全部で43巻もあり、具体的にどこなのか分からないのでいいかげんな記憶で書くと、司馬遼太郎がエジプトから来たお客さんを案内して大阪を車で走っていたとき、これが淀川ですと説明した。すると客はそれが品のいいジョークだと思って笑ったという。エジプト人にとって淀川は溝みたいなものらしい、向こう岸が見えないナイル川が川だとしたら。淀溝!
同じアフリカ人ながらサハラ砂漠の民モール人について、「星の王子さま」のサン=テグジュペリ「人間の土地」から。(堀口大学・訳、新潮文庫)
……彼ら(モール人)は(フランスの)サヴォア見物に連れて行かれたのだった。ガイドが、彼らを大きな滝の前に案内した。それは怒号する縒(よ)り合わせた円柱のようなものだった。
ーーなめてごらんなさい」と、ガイドが彼らに言った。
なめてみるとそれは真水だった。水! この砂漠の中では、いちばん手近な井戸へ行くにも幾日あるかなければならないやら。またせっかくその井戸が見つかったとしても、井戸の穴を埋めつくしている砂を何時間かかって掘らなければならないことだやら、駱駝の小便まじりの泥が出てくるまでには! 水! キャップ・ジュビーでも、シズネロスでも、ポール・テティエンヌでも、モール人の子供たちは、銭を乞いはしない、ただ缶詰の空缶を手に、彼らは水をねだる、
ーー水を少しおくれよ、ねえ。おくれよ……」
ーーおとなしくしてたらね」
水一升、金一升の値打のある水、わずかに一滴でも、砂から草の芽の緑の火花を誘い出す水。もしどこぞへ雨が降ったとなると、大移住で、サハラが活気づく。多くの部落が、300キロ向こうに、やがて芽吹くであろう草の方へと、下っていく……。ところが、この水、あれほど吝嗇(けち)で、ポール・テティエンヌでは、10年以来一滴も降ったことがないというこの同じ水が、かの国では底なし井戸から全世界の貯水が吐き出されでもするかのように、唸りを立てて流れ落ちているのだった。
ーーさあ、向こうへ参りましょう」彼らのガイドが言った。
だが彼らは動かなかった。
ーーもっといさせてください……」
彼らは黙りこんだ、彼らは厳粛に、無言で、この盛大な神秘がほぐれ落ちるさまを見まもった。こうしていま、眼前、山の腹中からほとばしり出ているものは、生命だった、人間の血液そのものだった。1秒時間の流出量が、多数の隊商を蘇生させるに足りたはずだ。渇きに血迷って、狂おしく、蜃気楼と塩の湖に飛びこんで亡び去った多くの隊商を、いま、神はここに姿を顕示していた、どうして彼に背を向けて立ち去りえようぞ。神はいま、閘門(こうもん)を開け放って、その力のほどを示している。3人のモール人は、身じろがなかった。
ーーいつまで見ていても、同じでしょう? さあ参りましょう……」
ーー待ってみてください」
ーー待てって、何をです?」
ーーおしまいを」
彼らは待つつもりだった、神がその狂気の沙汰に疲れるときを、もともと吝嗇な神だから、じきに後悔するはずだった。
ーーでも、この水は、千年も前から流れつづけているんですよ!……」
そんなわけで、今夜、彼らは、あの滝のことにはこだわらない。ある種の奇蹟は黙殺するに如(し)くはない。それどころか、あまり考えないに如くはない。さもないと、何もかもわからなくなってしまう。さもないと、自分たちの神が、信じられなくなってくる……。
ーーフランス人の神様ときたら……、なにしろ……」
サン=テグジュペリを「星の王子さま」の作家としてだけ記憶してほしくない。「夜間飛行」や「南方郵便機」の小説、「人間の土地」のエッセイ、これらこそ主著なのだから。そう言いながら、私もまだ未完の長編「城砦」を読んでいない。