瀬戸内寂聴「孤高の人」は湯浅芳子の優れた伝記文学だ

 瀬戸内寂聴孤高の人」(新潮社)を読む。これは湯浅芳子の優れた伝記文学だ。もっとも湯浅芳子を知っている人は少ないだろう。ロシア文学の翻訳家でチェホフの戯曲やマルシャークの「森は生きている」の訳者、そして宮本百合子「伸子」に描かれているモデル。実は彼女は宮本百合子レズビアンの相手でしばらく同棲していたのだった。百合子は湯浅を捨てて宮本顕治と結婚する。しかし湯浅は別れて50年後にも百合子を思っていた。

瀬戸内寂聴全集〈16〉長篇(12)

瀬戸内寂聴全集〈16〉長篇(12)

 湯浅芳子さんのことを、野上彌生子さんは「お芳さん」と呼んでいた。その声の響きには何ともいえない親愛感と、ちょっと揶揄したようなニュアンスがあった。私は野上さんにはその生前わずか三度ほどしかお逢いしたことがないのに、三度ともこの呼び方を聞いた。
 「瀬戸内さんが、ずいぶんお芳さんの面倒を見て下さっているとよく聞いて知っていますよ。ありがとう、私からもお礼をいいます。あんなわがままな人をよくねえ。お芳さんも幸せな人だ」
 私は文壇の大御所的存在の野上さんから、こんなふうにいわれて恐縮してしどろもどろになり、何と答えたかも覚えていない。
(中略)
 野上さんが私のような若輩に向かって湯浅さんのことをそんなふうにいわれたのは、私が湯浅さんに呼び出されると、どこへでもゆき、行きたいという所、食べたいという所へ案内して、お供させられていたからだろうと思う。費用はすべて私持ちというのが、なぜか、はじめからのしきたりであった。二言めには、
「あんたはつまらん小説書きまくって、あぶく銭かせいでいるんだから」
というのが、私の出費に対する湯浅さんの考え方で、私は面と向かってそういわれても別に腹を立てたこともないのが思えば不思議であった。口ではそう侮辱しながら、湯浅さんが私を好いているのがわかっていたからである。なぜなら湯浅さんという人は、自分の嫌いな人間からお茶いっぱい振舞われることも、拒絶する人であったからだ。

 湯浅芳子は若い頃当時流行作家の田村俊子に憧れやはり同性愛関係も持ち、のちに中国へ去っていく田村俊子の、最後に会いたいという願いを拒否した。田村は中国で亡くなる。
 湯浅はそのことに負い目を感じ、田村俊子会を作って田村俊子賞を創設し、第1回目の受賞者が瀬戸内寂聴(当時晴美)だった。
 とにかくこれでもかと湯浅芳子のわがままぶり、突然の激情が繰り返し描かれる。それと数々の付き合いのあった女性たちのエピソード。それがちっとも不快でないのは、瀬戸内の品性によるのだろう。
 15年ほど前雑誌「ちくま」に連載されたもの。連載当時読んでいたが、初めてまとめて読んだ。雑誌の連載ということもあって、繰り返しなども眼につくが、瑕疵に過ぎない。瀬戸内の湯浅に対する深い愛情が読んでいて強く伝わってくる。

 1990年(平成2年)10月24日、湯浅芳子は14年住んだ「ゆうゆうの里」(老人ホーム)でおだやかな死を遂げた。満93歳だった。
(中略)
 私はその死の枕辺にもかけつけず、葬儀にも参列しなかった。
 湯浅芳子が、一切の友人の死に背を向けた心を全身で味わい、その辛さに耐えていたかった。

 本書は「ちくま」平成2年12月号から連載が始まっている。亡くなった直後から書き始めたのだろう。瀬戸内の哀切が感じられる。

孤高の人 (ちくま文庫)

孤高の人 (ちくま文庫)