死について残酷で悲観的な見解を紹介した12月2日の「正宗白鳥の碑」に追加して、野見山暁治のエッセイ「母の終焉」を紹介しておきたい。
ちょっと福岡に戻ってきてほしいと母から電話があった。父は何かといえば平気でぼくを呼び寄せるが、母がそんなことを言うのは初めてだ。
福岡は霙(みぞれ)まじりの雪がちらついていた。二月のことだ。母はぼくを見るなりタクシーを拾って、そう遠くもない銀行に連れてゆき、貸金庫にある現金と、通帳の全額をおろし、それから郵便局に立ち寄って、又しても通帳に打ってある全額をおろして、ぼくに渡した。今日のことは誰にも言わないように。
……わたしは死ぬことにした、そのときこの金を用立てるようにね……母はごくふつうのことのように言った。
豪快をよそおう父の小心の陰で、気苦労は絶えなかっただろうし、又あるときは父になりかわった決断を迫られることもあっただろう。まして世間から身を引いてからの父は、ものの値段ひとつわからない。さしずめ自分の葬式のとき世間に笑われるようなことがあってはと、母はこの金をぼくに預けることにしたらしい。なるべくみんなに迷惑のかからない時期、そうして花のいっぱい咲く季節がいいとも言った。
どうして母は密かに死をくわだてたのだろう。この秋にお父さんが死んでくれれば、と母はこの一、二年そんなことをしばしば口にするようになった。そうしたらね、あたしはこの冬、安心して死ねる。
年を追うごとに父の我侭は昂じてきて、母の外出にまでいちいち口うるさい。もう耐えかねたのだろうか。元気そうに見える母ももう九十に近い。
もともと母は屈託のない女だ。父はつねに闘う人だったが、その緊張の日々に、母は息を潜めるでもなく、ごく自然に裁いて乗りきってきた。とうとうお父さん以外の男を知らずに過ごしてしまったと笑うあたり、歳を感じさせない艶やかさもあった。四人の娘たち、誰もこの香りも才覚も受け継いでいない。
半年ほど前のことらしい。廊下に何やらころりと転がっているのを母は見つけた。なんとそれが自分の粗相だと知ったとき、漠然と今日の日を予感したのではなかろうか、と妹たちは言う。たぶん母の美意識が許さなかったはずだ。
枯れた色、くたびれた気配、そうしたエネルギーの果てた姿を、母はおそろしく嫌った。このままだと自分は見苦しい生きものになってゆくのかもしれない。
できれば父の我侭を子供たちに背負わせたくはないと思っても、やがて二人そろって皆の足手まといになると察知した母は、思いあまって東京にいるぼくを呼び寄せたのだろう。
もしかしたら自分の産んだ子供たちが憎くなったのかもしれない。七人もいながら、ただの一人も親と暮らす気持ちの者はいない。それぞれ立派な理由を用意して逃げている。
春になった。いったんは体調をこわして母は入院していたが、そこでの治療、食事の一切を拒み、家に戻ってベッドに臥せたきり動こうとしなかった。心を開こうともしなかった。ひたすら死に近づいてゆくだけの日々だ。
母の口述によるぼくの記録。
仏壇は一切不要、経机一つ、その上に花一輪、香合、なお死に顔は誰にも見せない事。
食を断ってからほぼ二週間、医者からは再三入院を促され、相応の処置も強要されたが、ぼくは母の言うとおりに拒みつづけた。八十八歳、母はついに老人になることはなかった。
(野見山暁治「いつも今日」、日本経済新聞社、p.257-260)