女性のからだ

 野見山暁治がエッセイでクロッキーを始めた頃のことを書いている(『ユリイカ8月号 総特集 野見山暁治』、初出は『一本の線』)。中学を卒業して東京美術学校へ入学した頃だ。野見山はそれまで裸の女性を見たことがなかった。

 一段高い台の上に立って、天井からの明るい光を見事に受けとめている女の裸を、ぼくは見た。胴体、手、足と、人間の体はまとまっているものかと思っていたが、肉は内がわに縮まったり外へふくらんだりして、下から見あげると、ただなよなよと続いて、その果てに顔がある。
 白い肌のどこに目を移していっても、脚のつけねに沿った柔らかく黒いものがついてまわって離れない。見つめていいのだろうか、見たとおり描いてもいいのだろうか。

 雑誌に掲載されたヌード写真を見ると、大きな乳房があり魅力的な尻がある。それでついそのように乳房や尻は独立したもののように錯覚してしまうが、現実の生身の裸の女性を見ると、尻は背中から続いていてここから先が尻となっているわけではないし、乳房も胸に独立したものとして付いているわけではない。胸の一部が乳房だということに変わりはないが、やはり胸がなだらかに乳房に続いていて、これまたどこから乳房だというものでもない。
 ヌード写真などでは、尻や乳房が独立した器官のように見えてそのように思えてしまうが、本当はそんな風に分断されることはないのだ。全体は部分の集合ではない、という言葉を思い出した。
 野見山暁治のエッセイとは少し違うが、それを読んで昔考えたことを少し思い出したのだった。


一本の線

一本の線