先日のギャラリー川船の入札会で尾藤敏彦の作品を落札した。落札したあとで調べたら、尾藤豊と間違えて落札してしまったことが分かった。尾藤敏彦は人人会の会員で、生身の人間から型を取って金属の立体を制作している。
私が間違えた尾藤豊はルポルタージュ絵画運動などに参加していた戦後の画家だった。東京文化財研究所のホームページによると1926年生まれで1998年に亡くなっている。享年72歳。
洋画家の尾藤豊は、心不全のため東京都北区の赤羽病院で死去した。享年72。大正15(1926)年3月、東京に生まれ、昭和18(1943)年、東京美術学校建築科に入学、戦中は学徒動員により江田島にて航空図面作成にあたり、同20年7月赤羽工兵隊に入営、終戦をむかえた。同22年、同美術学校を卒業、この年の前衛美術会の第1回展に参加、また同28年には、青年美術家連合展に参加した。この時期には、「失われた土地A」(同27年、宮城県立美術館)にみられるように、地元でおこった軍事基地問題に触発され、手足など人体の形を大胆に変形した群像を描き、政治、社会の問題を告発する「ルポジュタージュ絵画」の先駆けのひとりとなった。同45年からは、齣展に参加した。「日本のルポジュタージュ・アート」(同63年、板橋区立美術館)、「昭和の絵画 戦後美術―その再生と展開」(平成3年、宮城県立美術館)など、80年代以降、各美術館で戦後美術が回顧される企画展には、時代の証言としてその作品がたびたび出品された。
「尾藤豊 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10669.html
1990年代に時々アートスペース環で個展を行っていて、私はそこで何度か見ている。前衛美術会では、桂川寛、山下菊二、勅使河原宏らと活動した。管見では桂川寛より優れた画家だったと思う。
前衛美術会やルポルタージュ絵画運動で共通する池田龍雄や中村宏は、その後シュールリアリズムなどに転じ人気を博した。尾藤豊はそのような方向を採らずに今ではあまり目にする機会がなくなってしまった。中村宏も池田龍雄もルポルタージュ絵画運動の方向で制作を続けていれば、こんにちの人気は得られなかったかもしれないが、美術界でははるかに高い評価が得られたのではないかと思っている。それは中村がわずか23歳で傑作「砂川五番」を描いていることからも想像できる。さらにヨーロッパの美術館からの貸出希望が戦後日本美術で最も多いのが山下菊二の「あけぼの村物語」と聞いたことがあったほどだ。
尾藤豊の見直しが図られるといいのだけれど・・・