井上理津子『旅情酒場をゆく』を読む

 以前、丸谷才一『食通知ったかぶり』を紹介して、つまらないエッセイだったと書いた。そんな生意気なことを書いたのも、食べ歩きの面白いエッセイを知っていたからだ。

 つまらないなどと丸谷大先生に対して断定的なことが言へるのも、同じやうに全国各地のうまいものを食べ歩いている面白いエッセイがあるからだ。それは筑摩書房のPR誌「ちくま」に連載されている井上理津子の「旅情酒場をゆく」のこと。丸谷大先生との違ひは、そこへ行くまでの旅が詳しく書かれており、料理屋の主人との会話がいきいきと再現されている。料理のほかにそれを取り巻く人間について語られているのだ。
丸谷才一の「食通知つたかぶり」(2010年4月16日)

 それがちくま文庫になった。井上理津子『旅情酒場をゆく』(ちくま文庫)がそれだ。和歌山県勝浦では、南紀通の友人に絶大なる推薦を受けてきた「おがわ」という店に入る。

「見て見て井上さん、メニューやばいですよ」
 とカタさん。壁面のボードを見上げると、生まぐろ、サザエ、地うにばかりか、まぐろ目玉焼き、まぐろカマ、まぐろチコロ、まぐろのワタ、まぐろのたたき、ゴンドー干し、くじら造り、いるか造りなどなど数奇なメニューが目白押し。
「地のまぐろだからね。くじらは隣の太地町ね」
 こちらを見慣れぬ客と見てとった板さんが、さらりと言う。

 鳥取県米子市では「天下一品のイワシの刺身を食べさせる」という「芳乃」へ入る。だがこの日は時化で「(イワシは)ないわ〜」と言われる。

「じゃあ何か他のおすすめのお刺身を、お任せしていいですか」
 となって、登場したのは「マルゴ、タコ、甲イカ、ちょっとずつね」だった。3種とも見るからにムチムチしている。
「マルゴって?」と訊けば、「ブリの小さいの」とのこと。これに箸をつけて、大げさじゃなくのけぞった。身が、歯形に沿ってじわじわっとまとわってくる。こんなモチモチ感、私は生まれて初めてだ。にゅわっとほんのり甘さが口中に広がり、笑みがこぼれる。それからそれから、タコ、甲イカもとってもジューシー。
「す、すごいです。新鮮なだけじゃなくって、包丁の入れ方がすご〜くプロ」

 こんな調子で日本全国24の街を飲み歩く。料理屋の主人やおかみさんとの会話が読み応えがある。井上理津子って、指揮者の朝比奈隆のいうコミュニケーション力があるのだ。いったいこの人何者なのかと思ったら、昨年『さいごの色街 飛田』(筑摩書房)を出した人だった。大阪西成区にある飛田は男の遊ぶ街らしい。取材で通う井上は、ここは女の来るところじゃないと追い払われる。それをまとめて本にしたのだから、根性のある人なのだろう。今度はこの本も読んでみたい。
 紹介されている24の街には、東京の浅草、大塚、吉原や、横浜の野毛、さらに長野市の権藤などがある。このあたりはいつか行ってみよう。


旅情酒場をゆく (ちくま文庫)

旅情酒場をゆく (ちくま文庫)