恩地日出夫監督と山本弘

 昭和43(1968)年、私は山本弘飯田市の銀座通りを散歩していた。山本弘は画家でアルコール中毒だった。酒を飲まないと外出しなかったから、この時も酔っていたのだろう。妻の愛子さんも一緒だったかもしれない。銀座通りには常盤劇場という映画館があった。そこに上映中の映画のポスターが貼られていた。内藤洋子主演の『あこがれ』という映画で、髪の長い内藤洋子がポスター一杯に大きく取り上げられていた印象がある。監督は恩地日出夫だった。

 そのポスターを見て、山本弘がこの監督とは幼馴染みなんだと言った。まさか、と思ったが、恩地監督は子供の頃飯田市疎開していて、その時一緒に暮らしたということだった。僕が予科練へ行くからと飯田駅から列車に乗ったとき、列車が動きだすと、弘さあん、死んじゃいやだようとホームを追いかけて来たんだとのことだった。

 あの有名な恩地監督と幼馴染みだなんて本当だろうかと半ば疑いつつ聞いていた。当時テレビ局が懐かしい人を探し出してきて対面させる「ご対面何たら」というテレビ番組をやっていたが、愛子さんが、弘さんあの番組に出て恩地監督とご対面したら、などと言っていたから家族間では周知の話題だったようだ。

 昭和56(1981)年に山本弘が亡くなり、平成6(1994)年に東京京橋の東邦画廊で山本弘遺作展が開かれた折り、恩地監督に案内状を送ったら本当に個展を見に来てくれた。後日恩地監督にお会いする機会を得た。恩地監督が少年の頃山本弘と同居していたのは本当のことだった。

 昭和20(1945)年、恩地監督は東京に住んでいたが、空襲が激しくなったので長野県飯田市学童疎開した。監督は昭和8(1933)年1月生まれだからこの年12歳になる。監督は父親からなぜかこの人と住めと山本弘の家に連れていかれる。山本弘は6月で15歳。その時父親と同居していたが、兄弟がいた記憶はないと言う。

 同居して憶えているのは、夜山本弘の父親と弘さんと3人で川へ魚を捕りに行ったこと。大きな川だったが、明りをつけないで声もたてないで静かに網を使ったという。親子が漁をしている間、恩地少年は近くで待機させられていた。あれは密漁だったのではないかと。監督が同居していた山本家のある飯田市内から近い川というと松川ではないだろうか。松川は天竜川の支流で、割合大きな川なので魚はそこそこいただろう。わざわざ天竜川まで漁に行ったとは思えない。恩地監督は密漁に関連して、山本親子には何か秘密の雰囲気があったと言われる。もっとも当時12歳の東京から来たばかりの少年の目には田舎の風習は理解できないことが多かったのかもしれない。

 恩地監督が転校した飯田市立飯田小学校では、東京からの疎開者として同級生たちにいじめられた。そのいじめっ子たちから弘さんが守ってくれたと話してくれた。

 山本弘は昭和20(1945)年予科練に入隊するとて飯田市を離れる。しかし厚生労働省に問い合わせた結果からは、予科練に入隊した記録はなかった。この年8月15日に終戦となる。恩地監督は飯田市から母親が疎開していた山形県に移住する。予科練に入隊すると言って飯田市を出た山本弘はその後どうしたのか。山本弘本人は予科練から逃げ帰ってきたと家族には話していた。しかし、山本弘は戦後すぐの昭和21(1946)年の第2回全信州美術展に入選しており、この時の住所が東京都板橋区石神井室町滝川太郎方となっている。滝川太郎とは贋作で有名な画家のことだ。私も山本弘本人から、滝川太郎のところに住み込みで弟子入りしていたが、爪が擦り切れるくらい墨を磨らされて大変だったので逃げ出したと聞いていた。終戦5か月後に練馬区に住んでいたというのは、戦後になってから上京したとは考えにくく、予科練に入隊しなかったものの、そのまま東京に留まっていたのだろう。東京は戦争末期の空襲で家が焼き払われ、戦後地方から上京するのはとても困難だったと多くの人が書き記している。

 戦争末期に飯田駅頭で別れた山本弘と恩地監督は生前二度と会うことはなかった。しかし、山本弘は『あこがれ』のポスターを見た時、すぐに監督が幼馴染みの恩地日出夫さんだと気付き、恩地監督もまた山本弘のことをよく憶えてくれていた。生前もし会うことが叶ったら二人はどんな印象を持っただろう。