『映画芸術』2022年春号「恩地日出夫、追悼」を読む

 『映画芸術』(NO.479)2022年春号「恩地日出夫、追悼」を読む。恩地監督は2022年1月20日に亡くなった。享年89歳、あと2日で90歳だった。多くの映画人が追悼の言葉を寄せている。

 黒沢年男は、自分は若いけど人を見る目はあった方だと言って、恩地さんに対しては、おとなしくしていればいいんだなと思って、言うことを聞いていましたね、と記す。出目昌伸監督や西村潔監督には、けっこうアイデアを出したり意見を述べていたのに。

 酒井和香子は初主演した映画『めぐりあい』の監督が恩地だった。「とにかく、あの『めぐりあい』がなければ今の私はいなかったんじゃないでしょうか。後にも先にも、あれほど緊張した現場はありません」。

 桃井かおりは、恩地監督とのTVドラマシリーズで、監督から何かトリックはないかとか、明日までにセリフ原稿にしといてくれるか、など、ドラマ作りの内側に桃井を引きずり込んだ張本人だったと書く。そんな過程がなければ、本を弄るこんなとんでもない女優にはなっていなかったということです。

 泉谷しげるは、『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』の犯人役を務めた。「NGを出そうものなら、ひどい口のきかれようで、さすがに殴る蹴るはなかったけれど、それこそ罵詈雑言の嵐」、「何度、ふざけんじゃないと逃げ出したことか」。でも、出来上がった作品のクオリティはさすがのものでした」と。

 撮影監督の上田正治は、恩地は「バカ」がつくくらいリアリティにこだわっている人だったと言う。「吉展ちゃん事件」のときも、昭和38年当時の景色を再現しようと、舗装道路には土を撒いて、ガードレールは映らないように工夫し都電も一番古い車両に走ってもらった。

 寺脇研は高校生のときに見た恩地監督の『めぐりい』が私の人生を決定した、これが「生涯の1本」だと言う。人生の恩人でもある、と。

 恩地夫人の星埜恵子が監督との出会いと最後の日々を語っている。そこにわが師山本弘恩地日出夫との交流が紹介されている。

 

 1944年8月、恩地が、世田谷区から学童疎開した先は長野県飯田市のお寺でした。そこから近くの尋常高等小学校に通いました。そこで出会った現地のガキ大将で軍国少年がいます。のちに画家として飯田の美術家集団を率いた山本弘でした。恩地が小学6年生、弘が高等小学校で2つ上、都会から来た疎開っ子は、現地の子たちに結構いじめられたようですが、なぜか弘は恩地をかばってくれました。中学進学のため東京の野沢に戻ったら東京大空襲、縁故がある人は東京から離れろと言われ一家6人の恩地家はバラバラになります。

 母親の郷里山形の親せきの家の受け入れ態勢ができるまでまず弟と母親が山形に、妹が飯田で学童疎開中だったからか、父親の判断で祖母、そして恩地は飯田市の北方、伊賀良村の大きな果樹農家の離れに落ち着き飯田中学、現在の飯田高校に通い、そこで敗戦を迎えます。しかし駅まで何キロも歩き電車に乗りまた歩くという通学を見かねたのか、なぜか父親が学校近くの山本弘の家と交渉し恩地だけが弘の部屋に1学期間だけでしたが同居しました。その後一家は1946年夏まで山形の土蔵の中で生活、恩地は山形中学、現在の山形東高校へ通いました。この戦中戦後の山形と飯田での2年間の体験は後年、いろいろとつながっていきます。(中略)

 今、生を全うした恩地を偲び、リビングボードに小さな骨壺と遺影とともに恩地メモリアルコーナーをレイアウト、皆さまから頂いたお手紙やお供えに加え、長野の果物、山形のお酒やお菓子を添え、壁には武満徹さんから頂いた加納光於さんの版画、そして山本弘さんの油絵、岡野耕三さんの作品を飾り、30年来、恩地の定位置だった食卓の椅子から眺めながら、できれば半年くらいかけてパリとスペインで、遺された方々と共にゆっくりしたいなと思っています。

 

 私が恩地監督に初めてお目にかかったのはやっと10年くらい前だった。本書で恩地監督の若いころの写真を見て、主演俳優が務まりそうなくらいハンサムでカッコよくて驚いた。

 ご冥福をお祈りします。

 

 

映画芸術 2022年 05 月号 [雑誌]

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