坂口安吾『堕落論』を読む,、そして山本弘の戦争体験

 坂口安吾堕落論』(新潮文庫)を読む。56~57年ぶりの再読。そんなことを覚えているのは、山本弘に初めて会った時、『堕落論』を読めと言われたからだ。その時私は19歳で、『堕落論』はすでに読んでいた。『堕落論』は戦後すぐの昭和21年に坂口安吾が出版した本で、戦争未亡人も新しい恋をするし、生き残った兵隊は闇屋になると書かれている。当時それは大胆な発言だったことだろう。

 山本弘終戦時は15歳、その頃予科練に入隊すると言って田舎を発っている。しかし、没後厚生労働省に問い合わせた結果では予科練に入隊した記録がなかった。予科練も試験があったというから合格しなかったのかもしれない。

 山本は終戦翌年の昭和21年(1946年)1月には有名な画家滝川太郎のところ(東京板橋区)に住み込みで弟子入りしている。その間の消息がよく分からない。だが、梅野記念絵画館での個展に際して発行された図録に興味深い文章が掲載されている。山本弘作「美少女」という長編詩だ。

 その詩の大意。

 

 おそらく終戦間際の6月、主人公の青年は粗末な防衛隊の寮に住んでいる。そこには外国人孤児たちの寮も併設されていた。孤児たちは6、7歳から12、13歳の子どもばかりだった。メリーという美少女もいた。彼等は日本生まれなので日本語がしゃべれた。「私達」は当番で彼らを保護する任務に当たっていた。「班長」が仕切っていた。たった1本の補給路の鉄道が破壊され、物資の補給が断たれた。倉庫の予備物資が使用され始めたが残り少なくなった。食事が1日2食に制限された。空腹のあまり倉庫へ侵入した兵隊が守衛に発見され、通りかかった班長に射殺された。

 ある夜、40キロの道を自転車で食料を運んできた6人の兵隊がいた。大きな袋には乾パンがぎっしり詰まっていた。その夜、「私」は子供たちの当番に回された。子どもたちはまずそうな芋がゆをすすっていた。冷えた芋がゆ。「私」の目先にあの乾パンの袋がちらついた。「ちょっと待て」と言って、拳銃の弾丸を調べた。安全ベンを外した。

 倉庫へ近づき守衛に拳銃を突き付け倉庫の扉を開けさせた。乾パンの袋を一つ取って背負った。守衛の後頭部を拳銃を逆さにして殴りつけた。守衛は倒れて動かなかった。乾パンを子どもたちのところへ持ち帰り分け与えた。

 空襲警報が鳴って爆撃が始まった。飛び出した「私」は大地へ身を伏せた。目の前に同じ格好でうつぶせていた黒い物がむくりと動いた。班長だった。拳銃を手にしている。「手を挙げろ」と班長が叫んだ。「貴様は死刑だ。倉庫の食糧を盗んだ。守衛を傷つけた。反戦思想の持ち主だ。俺の後に尾いて来い」。「私」は泥沼へ自身を叩き伏せた。同時に拳銃の引き金を引いた。爆音は他の凄まじい雑音に消されて響かなかった。班長は動かなかった。

 「私」は穴倉へ戻って行った。そこにはまだ3人の班長達がいるはずだった。班員たちも待機しているはずだった。穴倉へ2、3メートル入ったとき、何かにつまずいた。その時すさまじい爆裂音がして、「私」は横穴の板壁に叩きつけられた。寮の一角は滅茶苦茶に破壊され、火の粉が散っていた。「私」は跡形もない壕の中へ飛び込んだ。「私は真っ暗な天井を仰いでいた。真っ暗な天井で、メリー、他子供達が泣いている様だった。(それから二た月後、或る田舎家で、私は敗戦の報せを聞いた。)」

 

 この詩はどのくらい実態を反映しているのだろうか。変に現実感がある。私は班長を射殺している。しかし空襲の爆撃で私の犯行はばれなかったようだ。子どもたちは助かったのだろうか? 2か月後に終戦になっている、ということは6月のことだった。

 終戦後4か月後には滝川太郎に弟子入りしている。予科練に入隊するといって上京してから関東あたりにいて、空襲も体験しただろうし、詩に書かれたような事件もあったのかもしれない。山本弘が戦後徹底的な虚無思想に染まったのは不思議なことではなかった。『堕落論』などもかったるいくらいではなかったか。