死を覚悟したあと、生き直すことは

 吉本隆明の「日本語のゆくえ」(光文社)を読んでいて、次のところでひとつ分かったことがある。

 あの人(島尾敏雄)は終戦のときに非常にむずかしい体験をしています。
 人間魚雷で奄美大島の基地から出撃するというその寸前で戦争が終る。死を覚悟していたのに、それをはぐらかされるわけです。そのあとがむずかしいんです。ぼくにも多少似た経験がありますからよくわかりますが、いったん死を覚悟したあと、戦争が終ったからといって今度は生き直さなきゃいけない。そのときの気持の切り替えがいちばんキツいわけです。特攻隊員としていったん死ぬ覚悟をしたあと、その気持を生き直すほうに向けることはなかなかできないのです。

 わが師山本弘は1945年4月、15歳で予科練を志願し、友人知人に見送られて飯田駅を旅立ったが、結局予科練に入隊はしなかった。まもなく終戦となる。それからの数年間、山本弘ヒロポンや酒に溺れ、何度も自殺を試みては失敗し、虚無とデカダンの日々を過ごす。それがなぜだったのか、私には長い間疑問だった。
 おそらくいったん死を覚悟した後それをはぐらかされ、生き直すように気持を切り替えすことがむずかしかったのではないか。そのことが繰り返された自殺の理由なのではなかったか。
 加賀乙彦も似た体験を語っていた。「重層する戦争体験と私の戦後」(岩波書店新書編集部編「戦後を語る」(岩波新書)から。

 敗戦の夏、私は十六歳で名古屋にいた。陸軍幼年学校という将校養成学校に在学していたのである。そして八月末に一人の兵士として一望千里の焼け跡の東京に復員してきた。
 それまでの私の人生は、戦争にまみれていた。幼い時の記憶として二・二六事件の雪の日がある。幼稚園児だった私は、母から、きょうは恐い兵隊さんが外に大勢いるから、家から出てはだめだと言われたのを覚えている。小学校二年のときに日中戦争が起こった。小学校六年になるときに小学校は国民学校と改称され、その年に太平洋戦争が起こった。そうして、物心ついてから、ずっと継続された戦争の時代に、すっかり軍国少年に仕立て上げられた私は、何の疑いもなく陸軍の軍人になろうと決心して陸軍幼年学校を受験し、将校生徒となったのである。
 だから、私の場合は、自分が今までに受けた教育や大人たちに教えこまれてきた思想が、とんでもない間違いであると悟るところから始まった。天皇は神ではなく、軍国主義は過誤であり、国の主権は国民にあるという、今の人ならだれでも常識だと信じている事柄から、学びなおさなければならなかった。自分が信じていたことが、すべて正反対の方向に引っ繰り返されるという体験が、戦後の短い時間に、おそらく数ヵ月のあいだに、つぎつぎと襲ってきた。世界に冠たる大日本帝国は瓦解し、無敵皇軍はほんの二週間ほどで跡形もなくなり、私の在籍していた陸軍幼年学校も廃校になった。中学校で軍国主義を鼓吹していた教師は、戦後ひと月目には平和主義を教え、天皇至上主義に凝りかたまっていた新聞は、アメリカ軍が上陸すると、たちまち民主主義を賛美しだした。
 人間の作った強固に見える組織でも、いとも簡単に壊れてしまう、主義を奉じている者は、都合によっては百八十度の変節を平然とやってのける、要するに組織や主義などは、もろくて変わりやすい代物なのだという認識が私の戦後の原点にある。

 何度も自殺を試みた山本弘については以前書いたことがある。
 帰燕せつなき高さ飛ぶ