片山杜秀『国の死に方』を読む

 片山杜秀『国の死に方』(新潮社新書)を読む。これがおもしろかった。片山は音楽評論の世界でも高い評価を受けていて、音楽に関する著書も多いが、もともとの専門は政治思想史の研究者なのだ。音楽評論では吉田秀和賞とサントリー学芸賞を受賞している。
 本書の袖の惹句から、

……近年、この国の有り様は、あの戦争前後の混迷に驚くほど通底している。国家が自滅していくプロセスを精察し、暗雲漂う現代の「この国のかたち」を浮き彫りにする。

 明治の政治体制=明治憲法の体制は、大局的な意思決定につなげてゆく上級国家機関が存在していなかった。明治国家をデザインするにあたって、明治の元勲たちは何を考えたのか。明治維新徳川幕府を倒して新しい政府を作った。それは天皇が直接政治を主導する天皇親政である。過去の日本の歴史では、摂関政治があり、鎌倉、室町、江戸のような幕府があった。権力は低きに流れ、権力の上層は空洞化する。歴史を繰り返すことなく、王政復古の実をあげなければならない。しかし複雑化している近代では天皇親政は実質的に不可能だ。そこで元勲たちは、最初からなるたけ権力機構を細分化しておくことを選んだ。内閣、議会、裁判所、陸軍、海軍を切り離し、それぞれの中身もさらに切り刻む。
 しかし、その結果は「そもそも大日本帝国には、諸機関に集まる情報を遺漏なく整理し、大局的な意思決定につなげてゆく上級国家機関が存在していなかった。敵の情報どころか味方の情報すら全貌を把握しえなかった。情報は個々の部局に留め置かれがちだった。敵の様子はおろか、自国の実情すら、突き詰めれば誰にもよく分からなかった」ということになった。戦局が悪化したとき、陸軍は本土決戦を主張した。しかし、本土決戦で一時的にも勝利をおさめて頽勢を覆すことが可能なのか軍を含めて日本の誰にもよく分からなかった。
 戦争の時代の日本は軍国主義だったと言われる。軍部の力は強かった。しかし日本は軍国主義ではなかったと片山は言う。明治憲法は陸海軍を天皇直属と決めている。それは内閣総理大臣とも国会とも関係がない。天皇が軍をじかに統率することになっているが、天皇は形式的指揮官にすぎない。実質的に軍の作戦を指導すると責任を負うことになりよろしくない。君臨していればそれでよい。
 だが逆もまた真だと片山は言う。軍は内閣を支配できない。軍は作戦行動の内実を内閣に知らせる義務を負わない。しかし内閣も戦争に必要な物資の動員計画について、また外務省の差配する敵国との講和交渉について、正確な情報を軍に与える義務を負わない。政治と軍治は完全分離されていて、制度の建前としては軍部独裁には程遠い。
 さらに陸軍と海軍は別立てとなっている。統合作戦本部はない。大本営には陸軍と海軍を束ねる機能はない。陸海軍総本部長みたいな者はいない。いるとすれば天皇だが、現人神は大本営で日々の作戦指導を行う存在とは想定されていない。陸海軍は徹底してタテに割れている。本土決戦の準備についても教え合う義務はない。
 さらにロシア革命が参照される。スターリンの恐怖政治が紹介される。

……アゼルバイジャン共産党中央委員会がいっぺんに300人近くを除名した。ハリコフの某地方では教員が大量粛清されたので多くの学校で授業ができなくなっている……。
 しかし、その程度の話はまだ序の口。のちに明らかになったところでは、1934年の党大会に出席した中央委員、及びその候補は合わせて139人居たが、うち98人は処刑された。国家の組織の中でも武力を有することで最も下克上を起こしやすい赤軍、すなわちソ連の軍隊への粛清は徹底を極めた。1937年から翌年にかけて、5人いた元帥のうち3人、15人の軍司令官のうち13人、85人の軍団長のうち62人、195人の師団長のうち110人が粛清されたという。共産党の党員だった軍人は1938年に30万人いた、その半分は同年中に殺されたらしい。

 本書にはこのほか、ヒトラーの事例、関東大震災朝鮮人虐殺、戦前の「普通選挙」、世界大恐慌と日本の農業恐慌等々が列挙されている。本書を「おもしろい」と言っては不謹慎の気がするが、とても興味深く読んだことだった。片山杜秀、思想史と音楽評論と、天が二物を与えている!


国の死に方 (新潮新書)

国の死に方 (新潮新書)