佐藤康宏「三つの絞首刑」

 東京大学出版会のPR誌『UP』に佐藤康宏が「日本美術史不案内」という連載を書いている。9月号は「三つの絞首刑」と題してオウム真理教の教祖と幹部13名が死刑執行されたことを取り上げている。

 2018年7月6日、オウム真理教の教祖と幹部の計7名が絞首刑に処せられた。大人数の死刑執行から、12名を絞首刑にした1911年の大逆事件を想起する人は多かった。オウム真理教の犯した残虐な犯罪が償いを要するのは確かだ。一方、大逆事件は、検察と裁判所が幸徳秋水明治天皇暗殺計画の首謀者に仕立てたでっち上げである(神崎清『革命伝説』、芳賀書店、1968・69年)。大きく意味の違うふたつの絞首刑は、しかし、天皇の存在によって隠微につながる。元老山縣有朋は、西園寺内閣失脚を画策し、社会党への監視が不完全であると明治天皇に注進し、「何とか特別に厳重なる取締りもありたきものなり」(『原敬日記』)という反応を引き出した。その結果、社会主義者への弾圧が強化され厳罰化が進み、大逆事件の冤罪へと至ったのだった。オウムの死刑は、現在の天皇の退位を含む皇室行事を見越して、いわば早めの処分として行われた(同じ月の26日に残り6人も処刑された)。前者は天皇制を脅かす運動に恐怖を感じる天皇の意を汲み、後者は天皇制を維持する儀式の穢れとならぬように配慮して、時の政権が執行したのだ。

 大島渚の映画『絞首刑』では冒頭で次のような字幕が掲げられていたという。

しかし皆さん
死刑廃止反対の
71%の皆さん
皆さんは
死刑場を見た
ことがありますか
死刑執行を見た
ことがありますか

 佐藤は最後に次の文で小論を締めくくっている。

 この国は、人を殺害する権力を行使し続けたいのだろう。多数の人がその恐ろしさに無自覚のまま国家に力を委ね、残虐な殺人の共犯者となるのを愉しんでいる。

 以前銀座のギャラリイKで石川雷太の個展があった。インスタレーションで、屠殺されたばかりの牛の頭蓋骨を透明なアクリルの箱に入れて6個ほど並べていた。その額には5寸釘が打ちこまれている。それぞれの頭蓋骨の前には「死刑囚S. N」とか「死刑囚H. H」とか書かれたプレートが置いてある。背後の壁に大きくスローガンが掲げられていて、そこには「我々は人を殺す権利がある」と書かれている。
 このアルファベットは東京小菅の刑務所に収監されている実在の死刑囚の頭文字だという。作家はこのような方法で死刑制度を批判しているのだ。この展示を見たとき私は死刑が何を意味するか初めて想像できたのだった。わずかな想像だが。死刑とは人を殺すこと、殺すとは目の前にある五寸釘を額に打ちこまれた頭蓋骨が象徴していることなのだ。この時の衝撃はいまも忘れない。私が死刑制度について何の想像もしていなかったということなのだ。
 オウム真理教の死刑にこんな裏の意味があったことも初めて知った。