サルトル『水いらず』を読む

 サルトル『水入らず』(新潮文庫)を読む。短篇集で、「水いらず」「壁」「部屋」「エロストラート」「一指導者の幼年時代」の5篇が入っている。まさに50年ぶりの読書だったが、憶えていたのは「壁」の結末だけだった。評価が高いと思われる短篇集だが、そうだろうかと疑問に思った。
 本書は4人の仏文学者が訳している。「あとがき」は、それぞれの訳者が訳した作品について書いている。「水いらず」を訳した伊吹武彦が、

……日本ではこの作品が戦後(昭和21年)に翻訳紹介され、この作品一つをもって、いわゆる実存主義の全部をつくすものであるかのような誤解を生んだ。たまたまこの作品が、不能者とその妻との関係を取り扱っているために、実存主義はエロチシズムであるというような考え方が、アプレ・ゲール的肉体派の文学活動と結びついて一般に流布したのは、そのような誤解のうちのもっとも大きいものであった。

 なるほど、それで椎名麟三の肉体を主題にした作品が実存主義文学だなんて言われたんだ。長年の疑問が解消した。
 伊吹のあとがきには不思議な記述もある。

 なおこの翻訳は、某氏の手になるものであったが、今回は種々の事情により校訂者たる私の名で発表することとなった。

 種々の事情って何だろう。本当の訳者は誰だろう。
 「壁」の訳者も伊吹武彦で、これについて次のように書いている。

壁とは、実存哲学のいわゆる限界状況であり、人間が追いつめられたぎりぎりの立場である。サルトルはそのような状況において、人間が何を考え何を見るかを強力に描いた。つぎにこの作品には、「偶然」の問題が扱われている。人生を虚妄背理とみる実存主義の立場が、この作品の最後に、主人公の絶望的な哄笑となって現われている。

 「部屋」の解説で訳者の白井浩司が、「ガエタン・ピコンのいわゆる『形而上学自然主義』の要素も薄い」と書いている。サルトルの小説を「形而上学自然主義」と呼んだのはガエタン・ピコンだったのか! これまた長年の疑問が解けたのだった。
 「エロストラート」の訳者窪田啓作がはっきりと書いていることも興味深い。

 作品的造形という点から見ても、『壁』を別とすれば、他の4編はいずれも習作的な匂いが強く、傑作とは称しがたい。

 「一指導者の幼年時代」の訳者は、中村真一郎だった。
 高校生のときから10年間近くサルトルがバイブルだった。当時、マルキストの友人に、サルトルを批判できる思想家がいるとは思えないと言うと、あいつはブルジョワ観念論に過ぎないと言われた。それがとても驚きだった。内部からその矛盾を衝く批判のほかに、外部から別の体系の一部に過ぎないと批判する見方があることを知ったのだった。それでマルクスも少し読んだが、決定的にサルトルを相対化できたのは、メルロ=ポンティの『眼と精神』を読んだときだった。その「幼児の対人関係」を。
 マルキストの友人は10年ほど前に自死した原和だった。受験勉強をしていたとき、英文和訳の問題で彼が「このサートラーって誰だ」と聞いてきた。Sartreの発音記号をたどるとサートラーとなる。サルトルのことだよと教えたのが、原和にものを教えた唯一のことだったかもしれない。だから、そんなことをまだ憶えている。マルクス古田武彦も原和が教えてくれたのだった。

水いらず (新潮文庫)

水いらず (新潮文庫)