金丸裕子『自由が丘画廊ものがたり』(平凡社)を読む。副題が「戦後前衛美術と画商・実川暢宏」。実川は1968年、世田谷区の自由が丘に自由が丘画廊を開く。それ以前に戦後現代美術の草分けだった南画廊に出入りし、若いのに山口長男の80号の油彩の大作を買っている。自由が丘画廊では主に山口長男、李禹煥、駒井哲郎などを扱った。海外の作家ではポリアコフ、デュビュッフェ、ド・スタール、ステラ、フォンタナなど早い時期に扱っている。先見の明があったと言えるだろう。私も10年ほど前に何度か会って話を伺ったことがある。
著者の金丸は2年間ほど実川に会って話を聞き、それを本書にまとめた。いわば実川の一人語りに近い形式だ。だからどうしても成功談のようになってマイナス面は語られない。私が会ったときも、展覧会では分かりやすいものが最初に売れる、しかし売れ残ったものが一番良いんだ。自分はその売れ残ったものを買っていると言っていた。なるほど、卓見だと感心したが、やはりそこまで断言するのは多少はったりぽいのではないかと実川に対する疑念が湧いた。
本書でも実川が自由が丘画廊の顧客だったコレクターK氏を、東京画廊と南画廊にも紹介したと言っているが、スタッフだった竹内の記憶では、実川が海外へ行っている間に他の画商がK氏の電話番号を聞いてきたのだと言っている。現代美術の市場は小さくてコレクターを取り合っていたと。
自由が丘画廊がほとんどを取り扱った駒井哲郎について実川はこう語っている。
「駒井さんは1974年、54歳で舌癌と診断されるのですが、価格は高騰していました。高いものでは20万円から30万円というのもありました。それでもぼくには画料を1万円から上げさせなかった。いくらお願いしても『実川さん、今さらいいよ』と言って聞かなかった。(中略)1976年に駒井さんがお亡くなりになったあとで、1万円で買っておいた版画の絶版30点ほどを(奥様に)お返ししました」
実川は駒井が画料を上げさせなかったと言っている。しかし、中村稔の駒井哲郎の伝記『束の間の幻影』(新潮社)によれば少し違っている。
駒井の版画は大きさにかかわらず1枚3万円で売られていた。その内駒井は1万円をもらっていた。生前最後の個展のとき、駒井は倍に値上げしてほしいと申し入れた。画商たちが相談して1枚4万5千円に値上げした。駒井には1万5千円が支払われた。
実川に関してはいろいろな噂も聞いている。金丸は実川からの聞き書きで本書を書いたのだろう。だから実川の一方的な主張で終始してしまった。もっと広く美術業界に取材すべきだったのではないか。