ジャクソン・ポロックについて考えたこと

 NHK日曜美術館の12月11日の放送はジャクソン・ポロックだった。これは12月18日にも再放送された。ポロック展が生誕100年を記念して、現在愛知県立美術館で開かれており(2012年1月22日まで)、2月10日から5月6日まで東京国立近代美術館で開催される。
 日曜美術館ではポロックの作品が5年前165億円で取引されたと紹介されていた。ポロックは抽象表現主義の代表的画家として、バーネット・ニューマン、マーク・ロスコらと並んでアメリカ現代美術の最高峰の一人と位置づけられている。私もポロックをまとめて見るのは初めてなので楽しみにしている。
 と言いながら、ポロックの絵画アクション・ペインティングはそんなにすばらしいものだろうかと考えてしまう。日曜美術館では、ポロックは若い頃ピカソを意識していて自分も新しい表現をしたいと模索していたと言う。だが初期のポロックの絵画は凡庸なものに見えた。ポロックピカソに対して、「あいつが全部やっちまった」と言っていたらしい。
 やがてポロックはインディアンの砂絵からドリッピング(テレビではポーリングと言っていた)の手法を発見し、それがペギー・グッゲンハイムに見出され、一躍アメリカのヒーローになる。
 さて、と私は考える。ポロックの絵画はどんな豊かな未来を開拓しただろうか。ピカソマチスも絵画の新しい世界を開拓した。それに対してポロックのドリッピングはどん詰まりではなかったか。そのことにポロックでさえ悩んだのではないのか。「カットアウト」という大原美術館に収蔵されている作品の中央を人型に切り抜いた試みがそれを表わしてるように思える。
 進化を表す樹形図がある。哺乳類や被子植物のように多様な進化を遂げた種はケヤキの樹形のように末広がりのある形を示すが、種として展開することなく1属1種のまま消えていった生物種があるように、ポロックのあとには何も続かなかったのではないか。
 同じようにバーネット・ニューマンもマーク・ロスコも美術の大きな革新をしたかもしれないが、その先はどん詰まりだったように思えるのだ。
 アメリカの抽象表現主義に対する宇佐美圭司の厳しい批評を引こう。『20世紀美術』(岩波新書)から、

 一言でいえばポロックの絵画がヨーロッパの美的範疇を「強さ」によって超えたのである。(中略)
 絵の具をあつかう技術からいえば、ドリッピング手法は児戯に等しい、拙劣なものである。それは材料の変質や変色を考慮に入れる余裕を持たないから(短時間で仕上げる)、耐久性といった技術とは無縁であった。(中略)
 もう一人のニューヨーク派の代表的作家モーリス・ルイスの色をしみこませた大画面の作品も大変なものだ。一度日本に来た3メートル角くらいのその布を木枠に張るのを手助けしたことがあったが、それがボロボロになるときはどうするのであろうか、と私は危惧した。(中略)
 絵画が何かの表象であることから物質そのものへ移行する。(中略)色のしみこんだ布という物質は当然、鉄が放置すれば錆びるように、自然に変質し、やがてはボロボロになれば良いということであろう。(中略)
 20世紀後半アメリカから吹いた「サブプライム」や「強さ」を主張する美学が、100年後の美術館に、20世紀文明のゴミのようなアートの山をつくっていない保証はない。

 この本はもっと読まれてよいと思う。


20世紀美術 (岩波新書)

20世紀美術 (岩波新書)